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Epoxy -エポキシ樹脂-


(1)

 濡れ鼠よりも酷い姿のヤトを浴室に押し込み、レオンハルトは急いで食事の支度をした。行きはクラウスの愛馬が、帰りはヤトが雨風を跳ね退けてくれたおかげでレオンハルトの被害は軽微である。
 先刻メモ帳を紛失したので、今日の食卓には最近作って反応が良かったものを並べる形になってしまった。ルームシェアを始めてから続けてきた『日に一品は新しいものを作る』という小さな目標は今日で途切れることになりそうだ。
「あれがあればなあ」
 レオンハルトは悄気つつ間断なく手を動かし続けた。
「すみません、先にお借りしました」
「おう、ちょうど良かった。できたから先食べてろ。オレも使うから」
 エプロンを外しながらヤトを見た。「いえ、待ってます」と返す彼をレオンハルトは小突く。
「バッカ。ンな時間掛けねェし気にしねェで食ってろ。マジで死ぬぞ」
 申し訳なさそうにヤトが頷く。濡れた髪が額へ落ち、血色の悪い唇へぽたりと水滴を落とす。「ちゃんと乾かせよ」レオンハルトがヤトの顔面へタオルを投げる。難なく受け止めたヤトが再度頷く。
「いいな? 食ってろよ?」
 レオンハルトは言い置いて浴室へ向かい、扉をがちゃりと閉めて口元を覆った。
「……なん、だあれ。うあー」
 ヤトがヤトに見えねェ。いやヤトなんだけども。
 悶々としたレオンハルトは洗濯機に尻をぶつけた。少し傾いだ新品のそれがちょっと嫌な音を立てた。

「いやー、俺、さっきまでレオの手料理がこの世でぶっちぎりの一番だと思ってました。でもあれもびっくりするくらい旨かったな」
 口元を拭ったヤトが感想を述べる。温かい茶を淹れたレオンハルトが頷く。
「嬢ちゃんの国はよ、あれで極普通らしいぜ」
「マジですか!?」
 驚き目を見張るヤトへデザートと茶を渡す。
 本日を締める甘味は、クラウスの私邸を辞去する際アマネがくれた冷菓にした。若葉と空の色を足して二で割ったような色の器を赤銅色に縁取られた蓋が覆っている。容器の側面に描かれた瑞々しい芽と、くるりと巻かれたチョコレートが目にも鮮やかだ。
「容器も凝ってんなあ。どんな味がすんだろ」
 アマネは「肌寒い中こんなのしかなくてごめんね」と恐縮しきりだったけれど、彼女のくれる食べ物がアタリでないはずがない。
 うっとりと眺めていたレオンハルトとは対照的に、ヤトは受け取って早々べりっと蓋をはがし、小さなスプーンを深々と差し入れ口いっぱいに頬張った。声は聞こえなかったけれど、上がった眉ときらきら輝いた目を見るに、きっと相当お気に召したのだろう。
「ガキくせェ顔」
 笑ってレオンハルトも蓋に指を掛ける。
「俺、次の家はそこがいいな」
 一口目を飲み込んだヤトが言う。レオンハルトは手を止め、二口目を堪能しているヤトを見る。
「……出てくの?」
 ヤトは咀嚼を一瞬止め、再開し、嚥下してスプーンを置く。
「早々に出て行かないと、と、思ってました。長居をしてすみません」
「そ、か」
 ここは彼の仮の住まいだ。わかっていたことだろう。でも、と、レオンハルトに心寂しさが広がる。
「こんな贅沢してたら、前の生活に戻れなくなりそうで」
「ぜいたく? オレ、贅を尽くしたもてなしなんかしてねェぞ? そもそもあれはお前の金で」
 訝しむレオンハルトへヤトが微笑みを返す。
「いえ。あなたがいるところに俺もいて、あなたの料理を食べて。これ以上の贅沢ってありますかね」
「……ヤト」
「はい」
 レオンハルトの呼び掛けにヤトが姿勢を正す。レオンハルトが真っ直ぐに見澄ました先には、己が何を言おうともいつでも受け止めてくれた男の目がある。
「オレよ、最近献立のことばっかり考えてんだ。何作ったらオメェが喜ぶかな、もっと旨いモンねェかな、同じじゃつまらねェな、って。今日はこの前と同じモン出して、ごめん」
「え? いえ、そんな」
「今日もちゃんと考えてたんだ。けどよ、メモ帳落として……全部、忘れちまって」
「あ、さっきのクラウスの家での騒動でですか? あれは俺が」
「や。ヤトあの、」レオンハルトは唾を飲み込む。
「……女の子、誰?」
「おんなのこ?」
 ヤトがすすと視線を彷徨わせる。
「薔薇の、アーチの下で、オメェと居た」
「ああ、魔科の問題児ですか……見てたの?」
「うん」レオンハルトは眉を顰めた顔に頷き返す。「キスするとこ、までだけど」
「あー成程」ヤトが脚を組み直す。「脳天締めで阻止して放り出して泣かせる前までですか」
「脳──締めっ!? おめ、女の子のアタマ締めちゃあいけねェだろうがよ!」
 レオンハルトが怒鳴る。ヤトは平然と答える。
「締めますよ。俺、好きでもねー奴にそんなことされたくねーもん」
「キス、してねェの?」
「してねーです」
「好きじゃ、ねェの?」
「寧ろ嫌いの部類です」
「そ、っか……」
 レオンハルトは心身の力を抜いた。小首を傾げたヤトが、にっ、と口角を上げて言う。
「なにレオ、妬いてくれたの?」
 レオンハルトは、
「メチャクチャ、嫉妬した」
 照れも弁明もせずはっきりと頷いた。
 レオンハルトは立ち上がり、ヤトの隣へ椅子を置いた。
「オレ、ガタイのいい奴が好きなんだよ。ってか、司令の見た目がまんま好き」
 椅子に腰掛けヤトを見た。ヤトは動かない。
「小っちェえ、細ェ、ガキっぽい顔のオメェなんか、全ッ然、好みじゃねえ」
 しかめっ面でヤトを見た。ヤトは少しも表情を変えない。
「……ハズだったんだけど」
 レオンハルトは右手を伸ばし、まだ湿り気の残るヤトの髪に触れた。親指で頬を二三度撫でて、不思議な角度で上がったままの口角に添え、不器用に唇を寄せた。
「いつの間に惚れさせたんだよ色男」
 目を閉じ触れるだけのキスをして、鼻が触れ合う距離で目を開き告げる。
「返事、待たせてごめん。好きだよ、ヤト」
 それから目を閉じてもう一度、つたなく長いキスをした。

 * * *

「……ヤト?」
 目を開いたレオンハルトが吹き出した。
「オメェ、なんてェ顔してんの!」
「──え」
 ヤトは口元を手で覆い、調子の外れた声で叫ぶ。
「──いや! だってそっ、想定外でして!」
 戦場を駆ける最中よりも体が熱い。
(いま俺は、どんな顔をしてる? これじゃクラウスのこと笑えねーじゃねーか畜生)
「あのとき余裕綽々で乗っかってきたヤツがなに言ってんだか。で? オメェはどうなの。俺じゃご不満か」
 離れようとするレオンハルトの肩を反射的に掴む。
「嫌っ、な、わけねーでしょ! えっと! レオ!」
「おう」
 ちっと肩痛ェよとレオンハルトが笑って訴えても力は抜けない。ヤトはぐっと息を吸い込む。
「好きです。愛してます。ベタ惚れです。だっ、から俺……に、しといてくれますか……?」
 ヤトの二度目の告白は消え入るような声色になった。二つ呼吸をした後で、先程よりも盛大にレオンハルトが吹き出した。「カッコ悪ィなあオイ!」
「おう……よろしく」
 にこりと笑うレオンハルトをヤトは抱き締めた。
「レオ、愛してる」
 もう一度口にしてヤトは思う。
(うん、俺の『愛してる』はこれでいいや)
 抱き締めた拍子にテーブルが揺れた。かちゃりと鳴ったスプーンの横で、どろどろに溶けたチョコミントアイスが恨めしげに二人を見ていた。