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Ruling pen -カラス口-


 暗闇の中、彼の金色の髪が揺れている。普段よりも幾分か重い色合いなのは、吹き出した汗を含んでいるからだろう。
 彼の大柄な体は厚く肉付けされている。鍛えた内側を適度な脂肪が覆うその体は大層触り心地がよい。自分と共に、最前線で戦うことも少なくないはずなのに、肌には切り傷のひとつもない。なにもかもが自分とは正反対の体にいつまでも触れていたいと思った。
 胸の中央から臍へ、丸みを帯びた腸骨の上へと指を這わせる。隆起をなぞるたびに熱い体が跳ね、反り返り、縋り付いてくる。腸骨から臀部へと、今度は掌を使いゆっくりと撫で擦る。自分の腹を跨いでいる彼の腿が震えた。腿の付け根で硬く勃ち上がったそれも一緒に震えるのが見えた。
 指を臀部の頂点から仙骨へと移した。より一層彼が震えた。腹に一滴の粘液が垂れた。震える彼が、上でも下でも泣き零している。その酷く淫蕩な姿に誘われるまま、仙骨から谷に沿い、ぬかるんだ窄まりへと指を伸ばした。
 と、彼が先に動いた。日中は機械を弄る彼の手が、彼の尻の後ろで涎を垂らしていた己の肉を優しく掴む。握り込まれ、くびれを擦り上げられ、孔に当てられ、包まれる。長く息を吐き出した後、ゆっくりと腰を沈める彼の腰を支える。支えた手に彼の手が置かれ、ふたつの体の律動が重なる。
 彼が胸を反らす。自分は首を反らす。彼が沈む。自分は突き上げる。けして性急ではない動きはやがて、彼が一際大きく長く震えることで止まった。
 彼が濡れた唇の奥から小さく音を漏らした。
『ヤ、ト』

 * * *

 ばちりと目を開けたそこには、金の髪も心地よい重みもなかった。
「──な、んつー夢見てんの、俺」
 欲望に忠実過ぎるだろと独り言ち、ヤトは汗ばんだ額をぐいと拭った。
 枕元の時計を確認すると、本日の勤務までまだ三時間は寝られそうな時刻だった。ヤトは気配に聡くすぐに目が覚めてしまう性分だったけれど、寝付きも良い上寝る場所を選ばないので別段不便に感じていない。枕が変わろうと布団がなかろうと、休むべき時に休まる体は軍人として生きている今非常に役立っている。
 ヤトは再び目を閉じた。しかしどうしても眠れない。結局諦めて身を起こした。理由はもちろん今ほど見た夢だろう。
 あの声、あの体が眼裏にちらつき離れない。
「目を閉じても眠れねーなんてことあるんだ……水、飲もう。飲んで落ち着こう」
 軽く頭を振りベッドから足を下ろす。
 直後、にちゃり、と音がした。何か踏んだかと足を上げて確認するが何もない。視線を足先から段々と上げていきある一点でふと止めた。まさかねと軽い気持ちで紐を解き、下着に手を突っ込んだヤトは固まった。
「マジ……ですか……」

 * * *

 小さな物音が聞こえたのが先か、手が銃に伸びたのが先か。
 レオンハルトはぼんやりとした頭を即座に切り替え、周囲を注視し音の出所を探った。
(さすがに軍用宿舎へ物取りに入るバカはいねェだろ) 
 考えながらも確実に足音を消し、静かに行動を開始する。
(ケド、オレよりも先にヤトが気付かねぇワケがねェ)
 なのに何故、という不安と緊張が胸中を過ぎる。
 住み慣れた自室は目を瞑っていても容易に進める自信があった。しかしレオンハルトは最前線並みの動きで着実に歩むと決め、パーテーションの横を抜け、キッチンカウンターの前を這い、音の出所まで無音で辿り着いた。
 胸元に押し当てた愛用の銃の安全装置を外し、脳内で機を計って飛び出した。常よりも低い声を発し静かに威嚇する……つもりだったのだけれど。
「おう、そこで何してやがる──って、うおぉぉおおおい! おめぇナニやってんの!?」
 声は甲高く裏返った。
「たす……助けて下さい……」
 ごとごとと唸りを上げる洗面所の隅の洗濯機。その中で、数時間前レオンハルトへ激しく愛を告白してきた男が脱水されていた。

「俺、家事が全くできないんです」
 フォークを握ったヤトは硬い声で言った。
 ヤトが本日二度目の入浴を終えた後、レオンハルトはリビングで緊急会議を開くと宣言した。発起人はレオンハルト少将、強制参加者はヤト少将である。
 従軍してから本日まで、二人は同じ時期に同じ階級だけ昇進してきた。所属はそれぞれ機科と魔科に分かれており、片や貴族片や平民という違いもある。しかし皇軍の誰にレオンハルト、またはヤトの相方は、と聞いてみても必ずもう片方の名前が出る。それくらいに差異無く平等の同期同僚だと本人たちも周囲も確信していた。
 ただし今この場において、彼らの力関係は明らかにレオンハルトが上と見える。彼としては怒るつもりなど微塵もなく、なぜどうしてという疑問を解消したいと思い問い質したのだけれども、内容を聞くにつれ頬が引き攣っていくのを止められなかった。
 ことの始まりは、なぜだかヤトが──理由は頑として口を割らなかったので不明である──夜中に洗濯を思い立った点にあるらしい。
「洗面所まで行って服を入れるまでは良かったんです。近くにある洗剤? みたいなのを適当に放り込んで、珍妙なる数々のボタンから直感が告げたひとつを押して。でも、いつまでたっても動かねーの。なんでだろうって見てたんですけど、この上のフタみてーなの閉めなきゃダメなんだって気付いて。で、次に気付いたら出られなくなってて、壊したらまずいなって思ったんで大人しくしてたら激しく動き始めて、やむなく内部から優しくアレを蹴りレオが起きるのを待ちました。壊れてたら新品買います」
 センタクキって、気持ちわりーんですね。沈痛な面持ちで呟くこの男を見て誰が皇軍一の出世株などと思うだろう。黄色い声で騒ぎ立てる女の子たちが見たらどう思うのだろう。
 様々な思いが去来し痛み始めたこめかみを揉みつつ、レオンハルトは次の設問に移る。
「皿洗いはできるだろ?」
「損害が皿だけで済んだ試しがありません。あの水流すとこが割れたり、粉々になった皿に引火して粉塵爆発したこともあります」
「……掃除は? 雑巾とかホウキじゃなくて、掃除機でいいから」
「ソウジキってどれです? ……あれがそう? あれって近代兵器じゃねーの? めっちゃ細かく砕けるって聞いたけど」
「……じゃあよ、食材の買い出しだったらどうだ? オメェ食うの大好きだろ?」
「野菜は全部同じに見えますね。あ、でも肉はわかりますよ。人肉(フレッシュ)か食肉(ミート)かの違いなら」
「あ、そう……」
 深く肩を落としたレオンハルトはそれきり沈黙した。

 ヤトは俯いたままでいるレオンハルトへどう声を掛けるべきか悩んだ挙句、今更格好を付けても仕方がないと諦め、言いたくなかった言葉を口にした。
「ええと、ですので、俺がここに居るとすげー邪魔になると思うんです。レオの仕事に支障が出るくらいに。俺、本当に何もできねーので」
 身動ぎせずにいたレオンハルトがぽつりと零す。
「わかった」
(やっぱり、俺が居たら迷惑ですよね。色々な意味で良い夢を見たと思おう)
 つかの間でも味わえた幸せを忘れない。そう決めたヤトは、心からの感謝をレオンハルトに伝える。
「一晩だけでも助かりました。食事も美味しかったです。ありがとうございました」
「あ?」
 怪訝な声と顔が同時に向けられる。ヤトはレオンハルトを首を傾げて見つめ返した。眉根を寄せた彼が呆れたように言う。
「ちげぇよバカ。オメェが一人じゃ生きてけねェ人間だってのがわかったっつうんだよ」
「は? うん、合ってますけどいささか腑に落ちねーですね」
 ヤトは首を傾げたままレオンハルトの優しく細められた目を見て、彼が何を言わんとしているのかを読み取ろうとした。『生き抜くだけなら誰よりも上手くやれる』という自信の根拠となる過去を呪う気持ちはない。同時に、レオンハルトのそれを羨み妬む気持ちもない。
 ただ、生まれも育ちも全く違う彼が見せるこういう顔は、ヤトには未知の心情を表しているらしい。好きな人の考えがわからず悔しい、という点だけがヤトには不満だった。
 茶を飲んでいたレオンハルトがふと笑う。
「時々、親父とオメェの話するんだけどよ」
「──は、あ!? なんっ、で俺の!?」
 過去に思いを馳せたのはほんの一時だった。にも関わらず狙ったかの如く飛び出した名は心臓を鷲掴み、ヤトを青くさせるのに充分な働きをした。
「仲良い同期の話くらいするだろうよ」
 ヤトの珍しい声色にレオンハルトも面食らったらしく、どうしたよ、と目を瞬かせる。なんと答えるかと逡巡している内に彼は話の続きを始めてくれた。
「親父、いつもオメェのこと褒めてんだよ。曰く、悪徳貴族がはびこるこの国で、後ろ盾も無くそのトシでそれだけの評価を得ているのは素晴らしい、ってよ。親父が誰かを手放しで褒めるの珍しいんだぜ? リヒトにも時々雷落としてンのによ」
「えー、はあ」
「なんだよその抜けた声。確かに家のことは……うん、できねェみたいだけど、仕事は誰よりもできるじゃねぇか。あの親父のお墨付きだ。だからよぉ……何もできないとか、言うな」
「……はい」
「てかオメェよぉ、最近はともかく寮に居た頃って人並みの生活できてたの?」 
「食事は毎回食堂で摂ってましたし、なんの不都合もなかったですよ?」
「メシはまあ、大丈夫か。洗濯とか掃除はどうしてたのよ」
「汚れた服は皇軍服から下着まで業者にお願いしていました。掃除も週一業者にお願いして。そうそう、いつの間にかどっちも超お得意様扱いになっててすげー割引してくれるんです。レオも使います? めちゃ便利ですよ」
「そうだな、風邪ひいたときにでも、頼むかな。はは……」
 レオンハルトは乾いた笑いを落とし、ヤトのグラスに茶を注ぎ足した。軽くなったポットを置いた彼が面を引き締める。
「で、だ。そんなオメェは一人にしておけねぇ。仕事に支障をきたすのはオレよりもオメェの方だろ? 魔科の遊撃一番手が体調管理を怠るな。金も減ったんだろうし無駄遣いも止めろ。よってルームシェアは継続。ただし、条件を出す」
「はい」
「オレは家事全般担当。オメェ食費担当」
 レオンハルトがまず自身を、次いでヤトの顔を指差す。そして指先をつつと下げ、胃の上でぴたりと止めた。
「そこはオレがどうにかしてやる。オメェは食いたいだけ稼いでこい。返事は? 少将」
 レオンハルトがにやりと笑う。
 ヤトは今日だけで何回思ったのかわからない感情に包まれ破顔し答えた。
「了解しました、少将」
 ヤトは、レオンハルトが大好きなのだ。