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Flash Memory -フラッシュメモリ-


 レオンハルトは駆けていた。彼を探して駆けていた。跳ねた泥水がブーツを汚しても気にも留めなかった。雨が降っていることにも気付いていなかった。ただひたすら彼を探した。握っていた手紙はふやけて皺くちゃになっていた。
 彼は薔薇の下に佇んでいた。レオンハルトは彼の名を叫んだ。雨雲を見上げていた彼が振り向いた。その目が二度三度と瞬くのが見えた。レオンハルトは駆け寄り、彼のネクタイを掴んで体を引き寄せた。彼はレオンハルトよりもずっと小柄だったので、駆け寄った力の向くまま二人揃って薔薇に体当たりをした。
 彼が何事かを言う前に、レオンハルトは彼の手に手紙を押し付け叫んだ。「実家から」彼の手がそれを受け取ったのを感じた。続けて叫んだ。「手紙が来て、みっ、見合いしろって!」言い切って、ネクタイを掴んだまま身体の力を抜いた。「ヤト」
「オレ、女の子は無理なんだ」
 ひた隠しにしてきた秘密は、なぜか少しの淀みもなく口から飛び出した。
「どうしよう。どうしたらいい?」
 べしゃりと地面に崩れ落ち、レオンハルトは箍が外れた胸の内を吐き出し続けた。ぼろぼろと零れていく言葉と涙は雨に混じり土へと落ちた。
 動かない彼の靴先が目に入り身体が強張った。謝らなければならない。「気持ち悪ィこと言ってごめん。ごめんヤト」彼は自分とは違う、普通の男なのだから。
 どうして自分は普通ではないのだろう。どうして普通に女の子が好きになれないのだろう。どうして
「シュヴァルツ司令……!」
 叶わない恋などしてしまったのだろう。
 引き攣る喉を通り抜けたその名前は熱く、目も開けていられないほど眩しかった。眩んだ目を覆い、レオンハルトは嗚咽を上げた。
 打ち付ける雨が頭の上で止んだ。身を屈めた彼が、レオンハルトの肩を抱きぽんぽんと叩きながら言った。
「気持ち悪くなんてないです。大丈夫ですよ、レオ」

 * * *

 手持ちのザックで一番大きいものを用意し、目一杯の料理を詰めて背負いレオンハルトは彼を訪ねた。そしてザックを渡す前に彼の体に触れ、抱いていた懸念を一層大きくした。
 細い。しっかりと筋肉は付いているようだけれど、それを覆う脂肪が僅かにもない。これでよく病気にならないものだと、レオンハルトは呆れを通り越して畏敬すら感じた。
 ちゃんと食べているのかと訊ねると、彼は憤りを隠さず魔力を纏いながら答えた。好き嫌いはない、人一倍食べる、ただもの凄く燃費が悪いのだ、と。
 そうか良かったと安心し、ザックをどんと押し付けた。あなた料理もするんだ、と驚いたように言われ、気恥ずかしさを感じながらうんと答えた。好みを知らなかったので色々作ったと伝えると、彼はその量には驚かず、ご馳走様ですと至極普通に受け取った。
 翌日何やら怒った様子の彼がやって来て、レオンハルトの首根っこを掴み上げ口早に感想を述べ立てた。メモを取るからもう一度と願い出ると彼はきっぱりと言った。
「ヤトちゃんはやめろっての」
 どうやらケーキの上に置いたチョコレートプレートがお気に召さなかったらしい。レオンハルトはきっちりとメモに残した。
 つらつらと不出来な点を述べた彼はしかし、具体的な好みを言わなかった。レオンハルトは【淵】へ出張している間も暇をみては考え続けた。結局良い案は思い浮かばず、中央に帰ったら誰かに聞いてみようと決めた。
 戻ったその足で魔科に向かう途中、たまたま歩いていた魔科と思しき人物に声を掛けた。その男はすらすらと彼の好みを列挙した。要約すると、「酒と肉類が好きで、どろっとしたものが嫌い」とのことだ。
「助かった! ありがとな」
 詳しい人物に早々と会えるとはツイている。感謝しきりのレオンハルトを見て男が笑う。「今どこもその話で持ち切りですからね」
「ちょうど皆で考えていたところなんです。レオンハルト少佐は何を贈るのですか? 同期のご友人としてはやはり、皆と違う何かを──」
「おくる?」
「──あれ? ヤト少佐の結婚祝いについてお考えだったのではないのですか?」

 * * *

 何年か振りにレオンハルトは生家へ無心の連絡をした。
 頼んだ品は数時間後に届いた。酒が飲めないレオンハルトにはそれらの価値がわからなかったけれど、父自ら選んだらしいので悪いものではないだろうと納得し、割れないよう鞄の奥に入れた。
 あくる日訪問した彼の部屋はいつも通り扉が半分開いていた。初めて訪れた際、不用心じゃねェのと尋ねたところ、「持って行かれて困るようなものねーですよ?」と不思議そうに首を傾げた姿を思い出した。
 いつでも好きに入ってくれていい。そう聞いていた室内へ足を踏み入れるときつい酒の香りがした。明かりもつけず一人掛けのソファに座っていた彼は、レオンハルトに気付くとグラスを片手に振り向いた。
「急務ですか?」
「や、違ェよ」レオンハルトは笑う。「オメェいっつも仕事仕事だなあ」
 見せつけるように鞄を掲げた。彼がまばたきをした。
「こないだオメェに言われたところ作り直してきた。あと酒が好きだって聞いたからよ、ツマミっぽいのもいくつか」
 自信作だぞと荷を揺らすと彼は困ったように笑った。
「さすがにちょっと多いですよ」
「マジ!? すまん!」
 確かに、前回よりも手間暇かけて作ったけれど。
 予想外の言葉に戸惑ったレオンハルトの前へ彼の腕が差し出される。
「はい。だから責任もって食べてって下さいね。持ちます」
「……了解!」
 一緒に飲むかと聞かれて飲めないと返事をした。けれど素面でいるのも気恥ずかしいかと思い、ちょっとだけならと返事をした。彼が嬉しそうに微笑んだ。
 慣れない酒に噎せつつ結婚を知らせてくれなかったことを軽く責めた。彼はレオンハルトが【淵】にいたからだと答えた。「そうだけどよォ」鷹や簡易の魔力を弾く侘しい場所を思いううんと呻る。
 それでももう少し早く知りたかった。件の男に聞いた式の日取りは、運悪くもまた【淵】へ向かう日と重なっていた。今からではもう調整ができず、同期の友の晴れの日に顔を出せない。
 ごめんなと謝ると、手を組んだ彼が何事かを呟いた。
「あ? なんつった?」
「仕事を優先しろって言ったんですよ。レオンハルト少佐」
また仕事かと呆れたけれど、レオンハルトは姿勢を正し彼の手を取った。「ここで言っとく」
「ヤト少佐、結婚おめでとう。多幸を祈ってる」
「──ありがとうございます」
 初めて触れた彼の手はレオンハルトの手に余るほど大きかった。細くて長い指、形の良い爪、こういったところが世の女性たちを魅了してやまないのだろうか。
(オレはごっつい手のほうが好きだけどなァ。でもなんか、すげェ温かくて……いい手には違いねェなあ)
 背を叩いてくれたときにも感じたけれど、触れてみるとよりわかる。この手は人を安心させられる手だ。
(ケド、なんでこんなに強張ってんだろ)
 気になってそっと撫ぜた。一瞬震えた彼の手が緩み、小指に遠慮がちに触れ、そのまま握り込まれた。
(結婚ってのは、緊張するもンなのかなァ)
 ふと過ぎった考えは、己には一生理解できないだろうと苦く笑いつと手放した。
「レオ」
 彼が顔を上げた。その面持ちは真剣そのものだったので、一体何事かとレオンハルトは構える。
「時々でいいので、今日みたいなの、作ってくれませんか」
「……バッカ!」
 なんだそんなことかと思い、いやまてまてと頭を振る。
「そこは嫁サンに頼めよ!」
「彼女はお嬢様なので料理ができません」
「え……あー」
 しゃあねェなあったく、と返事をし、そういえばと膝を打つ。
 仕事三昧のこの男が選んだ相手は誰だろう。お嬢様。ということは貴族の令嬢だろうか。
「ところでオメェの嫁って誰」
「レオ」
 レオンハルトは一際大きく声を出した彼に驚きつつ言葉を変える。
「まだ何かあんのかよ」
「何かあったら、いつでも言って下さい。俺にできる限りのことはしますから」
 彼は目を逸らさない。そのあまりの直向きさに瞠目し、少し照れを感じて笑う。
「おめぇそれ、オレのセリフだろうがよ」
 良い男だ。きっと幸せな家庭を築くのだろう。
 神様。この誠実で大切な友人にどうか、オレの分も併せたくらいの幸せを、くれてやって下さい。
「了解。頼りにしてるぜ、ヤト」

 * * *

 グラスを割り、

 銃を向け、

 ボロボロと泣き、押し倒された。

 彼の巧みなキスと馴れた手付きに少しだけ嫉妬した。
 ──確かに、嫉妬したのだ。