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Nail gun -釘打ち機-


(4)

 店を出たヤトは大きく息を吐き出した。服の下で、外へ出たくて堪らないといった様子の魔力がぱちぱちと爆ぜている。
 レオンハルトを片腕で抱き上げたままヤトは思案した。なるべくなだらかで人目の少ない道を選びたい。
 腕の中の酔っ払いが、酒臭い息を吐きながら「おちるー」と駄々をこねる。
「……今すぐ落としてーなと思ってますよ」
 車が何台か横を通ったけれど、ヤトにそれを使うという考えはなかった。駆けた方が速いと知っていたからである。

 探った底には目当てのものがあった。「ポスト」と言いつつ投げた部屋の鍵だ。一緒にメモも入っていた。

 片付けた。ご馳走様。

 成程と、そこまで考えていなかったヤトは素直に感謝した。皿洗いという難しい任務は自分に向いていないのだ。
 片付けられたキッチンを横切り、リビングとレオンハルトの部屋を隔てる仕切りの前まで来てヤトは酷く躊躇した。立ち入らないと自戒していた場所に足を踏み入れなければならない。こんなとろとろに溶けたレオを抱えて、だ。
 懊悩を知る由もない酔っ払いは呑気なもので、ヤトの首に回した腕に力を込め、柔らかい髪で頬と喉元を擽り「ヤト」と耳元で囁いてくる。
「ほんと、勘弁して下さいよ」
 焦ったヤトは大股で境界線を跨ぎ、俯き加減で室内を進んだ。
 壁際に置かれたベッドはヤトのものより小さかった。ヤトは彼はこのベッドでどう休むのだろうと想像し、すぐに考えを打ち切った。
 遮光性の低いカーテンから月明かりが滲んでいる。光は肉欲の誘惑を孕んで掛布を射していて、ヤトは長居をするべきでないと改めて思った。
 レオンハルトを横たえ、彼のベルトに手を掛けボタンを外し腕時計を外した。そして、他に何か寝苦しいところがないか素早く確認し、その場を離れようとした。
 腰を浮かせたヤトの手がレオンハルトに取られた。むにむにと、何かを確認するような動きをしている。
「オメェさあ、手、でっけェのな」
「は、あ。手と足は大きいみたいですね」
 それがどうしたいいから今は触ってくれるな、とヤトは言いたかった。けれど、目を閉じたまま口を軽く開き「オレ、この手すきー」と呟く彼にそんな物言いはできなかった。畜生この旨そうな生き物はなんだ、とヤトは叫びたかった。けれど、ゆっくりと目を開き右手を差し出して「もーちっと、ここにいて」と上目遣いに見上げてくる彼にそんな貧相な言葉は掛けられなかった。
「レオ」
 ヤトが絞り出した声は欲でみっともなく掠れている。
「俺、単純だから、そういうことされると誤解します」
「ごかい?」
 ヤトの左手に二つの手が添えられる。右手はヤトの手首を握り込み、親指で小指の下の丘を擦っていた。もう一方は指を根元から擦り上げ、骨をなぞり、筋を辿っていた。
 ヤトはその蠢きにはっきりと欲情し、もっと緩い服を選ぶべきだったと後悔した。張り詰め痛みを伝えてくる下半身に歯噛みしながら、あなたさ、と上擦る声を出す。
「あのお坊ちゃんと、何、話したの」
「おぼっちゃん? おぼっちゃんじゃなくてオメェに言っただろー? 聞いてなかったんかバカヤトー」
 レオンハルトが口を尖らせる。堪らずヤトは顔を寄せて──鼻先で止めた。
「聞いてませんよ、酔っ払い」
 普段のレオンハルトとは違う香りがする。酒と、煙草と、嗅ぎ慣れない香水だ。
 香水は恐らくあの眼鏡の男のものだろう。ドライのギフト、と名乗った。男の上着を掛けられ、膝に身を乗り上げ、腹に固く抱き着いていたレオンハルト。頬には涙の痕があって男が屈み込んで──。
 思い出して魔力が爆ぜ、火花となって指先を焦がした。慌ててヤトはレオンハルトの手を見た。幸運なことにどこにも怪我はないようである。
「ヤトそれ、やけど?」
 レオンハルトの目が細められる。酔っていても目は敏いらしく、ヤトの左手を注視している。
「大したことねーですから」
 言い募るヤトを無視しレオンハルトはヤトの手を口元に寄せぺろりと舐め上げた。それからふーふーと息を吹きかけ「はやく冷えろー」と笑った。少し大人しくなっていたヤトの欲がまた膨らんだ。
「畜生」
 ヤトは吐き捨て、指先でレオンハルトの唇に触れた。彼は気持ちの良さそうな顔で瞼を伏せ軽く口を開いた。ヤトは内側と外側の境目をなぞった。指先が舌を掠めた。またちろりと舐められた。
「聞いてなかったんならもっかい言ってやる」
 目を閉じたままレオンハルトが言う。何を、と返すと爪を舐められた。
「オレのメシ、食ってくれよー。食ってくれなきゃよぉ、好みもわかんねェよー」
 指が少し深く含まれた。
「肉がすきってのは知ってるぞー」
 笑う彼に第一関節で甘噛みされた。
「なぁヤト、仕事ばっかじゃなくてよぉ、もちっと家にいろよー。家に居なきゃ話せねェよー。つまんねェよー。オレ、オメェともっとハナシがしてェよぉー」
 手が解放された。と、起き上ったレオンハルトがヤトの胸に顔を埋めた。
「あンときみたいにちっとくらい──ちィっとだぞ? ゴウインでもいいからよォ、言いたいこと、いってくれよぉ……なんか、苦しィよ……」
 それきり黙ったレオンハルトがずるずると崩れ落ちた。
 両腕で受け止めたヤトはレオンハルトの背中を掻き抱き、「だって」と零す。
「めちゃ怖いんです」
 他の何を傷付けても自分だけは傷付けない。
 見返りがないことはしない。
 自分のものにならないとわかれば諦める。
「俺、自分が傷付いても好きでいるってどういうことかわからねーんです」
 幼い頃身につけた習性は仕事との親和性が高かったけれど、大切なものを前にするとどうにも不都合が多い。
「俺、あなたに拒絶されても、あなたのこと好きでいられますか? 嫌いになるんですか? 俺あなたのこと、ずっと好きでいたい」
 ヤトにはわからない。レオンハルトが家事のできないヤトを部屋に置く理由も、毎日毎日食べるかどうかわからない食事を用意する理由も、彼の優しさが、自分の欲しいものへ繋がるのかどうかも。
「俺、あなたにもう一度聞く勇気もねーんです。俺あのとき、あれでもめちゃ頑張ったんですよ?」
 そうしてヤトは、犯し尽くしたいという欲望よりもずっと醜く黒い打算で今日も退路を確保するのだ。
「時間をくれって言ったのはあなたです。だけど、始めから俺の方が準備できてないんです。俺、オツキアイってなんなのか、レンアイってどうするものなのかさっぱりわからねーんです。逃げてばっかで、カッコ悪くてごめんなさい。俺にできることなら何でもします。食事もここで頂きます。だから……嫌いにならないで、お願い」
 ヤトは安らかな寝息をたてているレオンハルトをベッドに寝かせ、布団を掛けて柔らかい髪を梳いた。それから、彼にだけと決めている言葉を音にした。
「あいしてる」
 意味は、いつかわかればいい。
 そう願うヤトにとって、これはまだ祈りの言葉である。

 * * *

 纏まった雨が降る季節になった。とはいえ、農作物の生育に影響が出るような大荒れにはならない。その前にリヒトがどうにかするからだ。
 レオンハルトは水たまりを軽い足取りで飛び越えた。今日はヤトもレオンハルトも日勤で、明日は珍しく揃って休みである。空に浮かぶ球を眺め、リヒト明日は晴れにしてくれやと笑い、レオンハルトは本日の献立を考え始めた。
 ここ最近、ヤトは毎日部屋で食事を摂るようになった。自分の方が帰りが遅い日でも、彼は菓子をつまみながらアマネの国の本を開いて待っている。普段本を読まない彼も肉料理の本は大変お気に入りのようだ。今日もきっと「これが食べてーです」とリクエストをくれるはずなので、献立は副菜やスープといったものメインで考えればよいだろう。
 本部での業務を終えたレオンハルトは、いつもと違う帰り道の途中で薔薇が作るアーチを見上げていた。
「……今の時期が一番華やかだなァ」
 本部から各施設へ広がる道は一年を通じ多数の花で彩られている。そして木立の隅には、若い兵は知らないだろうけれど、小さな石造りの碑がある。
 レオンハルトは『いつもありがとう』と刻まれた碑前で先代皇帝に黙祷を捧げた。そして緑の渦の中へと足を踏み入れた。

 干からびた花弁を踏み、似た形の菓子を連想し、買い置きしている量では足りないと気が付いた。
 忘れないうちに書き留めねェと。
「……い、あなた、」
 ペンを手に立ち止まったレオンハルトの耳が、菓子を大量消費する男の声を拾い上げる。
「ヤ」
 声を掛けようとして息を顰めた。彼の腰の横から細い腕が覗いて見えた。腕はヤトの腰を捉えた。陰に隠れていた女性が姿を現し、彼を鈴生りの薔薇に押し付けた。
 雨脚が強まるにつれ音は遠ざかっていく。
「そこは、」
 女性の顔は彼の顔を覆い、彼の手が彼女の頭に伸びた。
「オレが」
 呟いたレオンハルトは頬に棘の感触を覚えた。深く鋭い痛みを感じたので胸元にも触れた。隙間なく身体を包んだ皇軍服に棘は刺さっていなかった。ゆっくりと踵を返しその場を離れた。
 分かれ道で足を止めた。
「──買い、物、行かねェと。肉はあるし、酒もあった気がするし……あれ、何が、ないんだっけ? 歩いてたら、思い出す、」
 方向を変えた途端膝から力が抜けた。
「レオンハルト」
 脇を大きな手で支えられた。
(違う、この手じゃない)
 はっきりと思った。