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Orbital sander -オービタルサンダ-


「やめろって言ってるでしょうがこのやろー」
「痛い痛い! 痛いですヤト様! あと私は野郎じゃないです!」
 眼前でみしみしと音を立てる女の頭を眺めつつ、ヤトは己の失態を嘆いていた。
 この女性は今季からヤト直属となった魔科の曹長だ。初めて顔を合わせたその場から今に至るまで、手を変え品を変え言葉を変えヤトに『おつきあい』というものを申し込んでくる大変迷惑な人間である。
「様ってのもやめろっての。何度も言いますけど、俺好きな人いるんで。迷惑。うぜー」
「私も二番目でも十番目でも良いですからって何度も何度も言ってるじゃないですかー!」
 顔を合わせるとこの調子だったので、三回目だか四回目だかのそのときにヤトは動いた。彼女を引き摺りクラウスの執務室まで行き、このままでは仕事に支障が出ると進言したのだ。
 二人を交互に見たクラウスは、ヤトに『お前の裁量でできるかぎりのことをしろ』と、彼女に『その熱意と度胸は勤務時間外に発揮しろ』と宣った。上司の言葉を受け、ヤトは少将の権限を遺憾なく使い同じ勤務時間にならないよう調整を続けてきた。一方の彼女は、ヤトの勤務時間外を狙って現れるようになった。
 普段のヤトであれば彼女の気配や魔力の残滓といったものを見落とすことはない。しかし今日のヤトは少々浮かれていた。出勤前、はにかんだレオンハルトから「明日晴れたら魔動二輪車で遠出しようぜ」と言われていたからだ。
 そしてこの場所である。
(今年もいっぱい咲いたな)
 背中で薔薇の棘を受け止めていたヤトは、そろそろ投げ捨ててもよいだろうと考え軽く腕を動かした。この力加減が非常に面倒くさい。ヤトが少し間違えば、人間の頭など昨日のサラダの赤い野菜のようにぷちりと弾けるのだ。相当痛いであろうに落とされまいと足掻く彼女へヤトが心底うんざりとした声で言う。「あのですね──」
 細めたヤトの目に、濡れそぼったレオンハルトの後ろ姿が映る。
(何、やってるのあの人は。風邪を引いたらどうするの)
 ヤトの焦りを甲高い声が煽る。
「ヤト様、私」
 うるせーですと睨むと彼女は黙った。すぐに視線を戻したヤトは目を眇め、刹那、ぞろ、と巡り出す魔力を感じた。
「俺の、」
 レオンハルトが離れていく。脇をクラウスに抱えられて。
「好きには、最初も最後もないです」
 彼女を放り出しヤトは歩き出した。すすり泣く声を聞いても特に感慨はなかった。潰さなかったんだとだけ思った。
 ヤトは二人と距離を取って薔薇のアーチを進み、茨の陰からクラウスが馬房に向かうのを確認した。仕事を終えた彼が愛馬を使い向かう場所は一つしかない。そしてそこでする話とは、恐らく職場ではし難い類のものである。
 話の内容も予測がついた。息子が生き難いのならば世の中の方を変えてしまえばいい。その考えを皮算用で終わらせない力を持つ男がヤトの頭を掠める。
 心配することはない。クラウスは何もしない。
 だけどレオは。
『わかってたってよぉ、割り切れねえもんがあるんだよ!』
 ヤトにもようやく、大粒の涙を零しながら叫んでいた彼の気持ちがわかった気がした。頑強なはずの心臓が軋んで痛い。あの日のレオンハルトのそこは、割れたグラスを骨まで刺した自分よりずたずただったのだろうか。
 二人を追った先で見聞きするものは自分を傷付けるものかもしれない。
 それでも── 
「ヤト少将」
 視界と思考が遮られた。眼鏡の男が眼前にいる。
「お時間は」
「ありません」
 どいつもこいつもなぜ今と、ヤトは地団太を踏みたい気持ちになり、いや違う、と舌打ちする。己の注意力が散漫に過ぎている。
「話があるなら急いで下さい」
 苛立ちを凄みで隠し告げた。ギフトは背筋を伸ばすと胸元から封筒を取り出し言った。
「先日頂いた余りです。ありがとうございました」
「どうも」
「それと、誤解を招く言い方をしたこと、謝罪に参りました」
「はい?」
「あのときの言い方では、自分がレオンハルト少将に横恋慕していると受け取られたかと思いまして」
(ヨコ、レンボ。誰かが誰かにコイしているときに、割って入るようなこと、か?)
 でもそれじゃあ、このお坊ちゃんは。
「あなたは……や、いいです。で、してねーの?」
「はい。そう受け取って頂けるようにわざと言葉を選びましたが、自分は少将に敬慕以上の念は抱いておりません。不敬甚だしい言い振る舞いをして誠に申し訳ございませんでした」
 彼が偽りを言っている様子はない。わかりましたどうも、と答えたヤトは彼の横をすり抜けた。
「自分の性的指向は普通(ストレート)です」
 先を急ぎたいという気持ちに勝る思いがヤトの歩みを止めさせた。ヤトは振り返り、いまだ直立不動でいたギフトに近付き見上げて訊ねた。
「ティルピッツ一等兵。あなたはレオンハルト少将の直属ですか?」
「え? いえ、来季以降そうなるように目下努力を」
「成程。レオンハルト少将と違い教養のねー、他部署の上官が出しゃばってすみませんが、一つ忠告します」
「は、ぅ」
 痩せぎすな長身が浮く。
(あれが怖い、これも怖いとか考えてるけどさ)
「レオの前で今の言葉を言うな」
(レオに迫るなにがしかだけは指銜えて見てたことなんて一度もねーんだろ? 足りない頭働かせるより得意なことあるだろ?)
 ヤトは股間に差し込んだ靴先を一層持ち上げる。
「言ったら潰す」
(だったらとっとと走れよ、臆病者)
「俺、行きます」

 * * *

 話がある。だが酷い顔色をしているな──わかった、落ち着ける場所がいいだろう。
 ぼんやりとした頭でそんな会話をしたらしい。いつの間にかレオンハルトはクラウスの私邸に招かれていた。
 二、三十分で済むと聞き、終わったら買い物に行けるなと算段し胸元を叩いた。が、そこにあったはずのメモ帳が無い。メモ帳自体は惜しくないけれどそこに書いてあった今日の献立が重要だ。
 落ち込み項垂れたたレオンハルトの目に湯気が映る。上官自ら茶を淹れて下さったらしい。恐縮しながら茶を受け取り切り出された話の内容を脳内で反芻する。どうもあの父が、
「うえっ!?」
 レオンハルトは暖炉前のソファから飛び上がらんばかりに驚いた。至極真面目な顔で頷くクラウスを前にレオンハルトが困惑を深める。
「馬鹿親父の戯言は気にしねェで」
「御父上のことをそういう風に言うのはやめなさい」
 ぴしゃりと言われ、はい、と再び項垂れる。
「卿にも思うところがあったのだろう。皆から意見を聞いている最中だ。レオンハルト、お前はどう思う」
 ざ、と、血の気が引いた。暖炉の前にいるのに震えた。そうだこれにはまだ火が入っていないのだった。いやそうではない。考えが纏まらない。思うところ。そんなまさか。しかし。
 レオンハルトが視線を動かすとクラウスのそれと交錯した。何もかもを見通すような目に耐え切れず、レオンハルトは再び俯いた。
「オレ、は」

 苦しくなったときに思い出すのはいつでも、大丈夫ですよと言ってくれた男の顔だった。
 彼は一番辛かった時に来てくれた。彼は細君に、大切な同期のために暫く帰らないと言い結果離婚した。細君は、自分が見合いをするはずだった女性だった。彼は目の前のこの人にも勝てると言った。だから俺にしときなさいと言った。彼はあなたををずっと見ていたと言い組み敷きたいと言いキスをして、それでも時間が欲しいと答えた自分に無理強いをせずただ傍にいてくれた。
 やきもきするほど何も望まず、不安になるくらいの微妙な距離で、ずっと。
(ヤトは気持ち悪くなんてないって言ってくれた。他の誰がどうであれ、アイツがそう思ってくれるのなら、もう)
「司令」
 レオンハルトは顔を上げた。クラウスの眼差しは穏やかな緑の色を湛えている。この目に惚れたのだったと思い出す。
「オレは同性愛者です。親にも相談できねェまま、今日まで隠してきました」
(もう、終わりにしよう。隠すのも、これも)
 レオンハルトはソファから立ち上がり、胸を張ってクラウスに臨む。
「司令、オレ、貴方のことが好きでした」
「そうか」
 短く答えたクラウスが少々の間を置いて言葉を繋ぐ。
「私はアマネがいい。男か女かということではなく、あれしか要らない」
 応えられずすまないと言ったクラウスに、いえ、と返事をした。こんな風に誤魔化しも嘲笑もせず、真摯に受け止めてくれる人だから好きになったのだ。
 改めて思い返してみても、彼に肉体的な情動を感じたことはついぞ無かった。毎日遠くから眺めていた新兵の頃。彼の力になりたいと技能を磨いた将官試験前。色気の欠片もない汗とオイルと硝煙塗れの日々は、昇進という形で結果を返してくれた。
(オレ、少しずつ貴方に近付いていけたのが嬉しくて、貴方と一緒にリヒトを支えてやれるって考えて……それだけで満足してたんです。十やそこらのガキもしねェような、青臭え恋でした。本当に……ありがとうございました)
 心に閉じ込めていた数多のものがレオンハルトの眼を通り外へと溢れ出た。スンマセン、と謝ったけれど、軽くなる心は滂沱として止まらなかった。
 低く落ち着いた声で「レオ」と呼ばれ、背中に手を添えられた。剣と人を扱う逞しい手は憧れだったけれど、十数余年を経てもそれ以上にはならなかったのだ。なのに。
(あの日、貴方に触れられた嬢ちゃんを見て、オレは心底羨ましいと思いました。だけどオレ、アイツに触られた女の子を見てもいいなァなんて思えなかったんです。女の子にもアイツにも、足が震えるくらいの怒りを覚えたんです。アイツ、オレがいいって言ったのに、オレも、オレの方があの手が好きなのに、オレ、)
 暖炉から嵐が巻き起こった。手は嵐と共に離れて行った。
 椅子の倒れる音がした。レオンハルトはしゃくり上げながら呟いた。「ヤト」
「オレ、オメェのこと好きかもしんねェ」

 * * *

「誠に、申し訳も、御座いません」
「もう良いから頭を上げろ」
 平伏する部下二人を前に、湿布を首に貼りつつクラウスが言う。
「あの……おはなし、終わりました、かね?」
 アマネが四人分のコーヒーと八人分のパウンドケーキを手に顔を覗かせた。頷いたクラウスがアマネから盆を受け取り二人の前に置く。香ばしく甘い匂いを嗅ぎつけたヤトの腹が鳴る。
「まあ、なんだ。とりあえず飲め。温まるぞヤト」
 濡れそぼったヤトはそろそろ動けなくなりそうな頃合いだったらしい。喜々として受け取ったヤトが言う。
「ありがとうございます頂きます。あ、どうもお邪魔してますこんにちは」
 アマネが複雑な面持ちで頷いた。ヤトが実にダイナミックに──煙突から侵入し、レオンハルトの嗚咽を聞いて暖炉から飛び出し、クラウスの首へ蹴りを繰り出しそのまま首を締め利き腕を捻り上げるという方法で──上官宅へお邪魔したことを、床に屈み込んでいるレオンハルトを見て何となく察したからである。
「レオさんも、後で私するから、一緒に飲も?」
「嬢ちゃん、マジでごめん。取れなかったら責任持って床全面張り替えっから」
 レオンハルトは半泣きでヤトの靴跡を拭き拭き答えた。それから、うまっと叫びもぐもぐと口を動かし続けるヤトの頭を思い切り叩いた。
「オメェももっとちゃんと謝れよ! 掃除できねェんだろ!? だったら誠意くらいは示せよ!」
「本当にすみモグんでした。レオ、これ作れモグ?」
「あああもうこのバカは」
 やりとりを見たクラウスとアマネが笑っている。
 レオンハルトは穴の底で穴を掘って埋まりたいと思った。そして心残りの無いよう、埋まる前にこれだけは聞いておこうと思った。
 レオンハルトがさり気なくキッチンへと向かう。と、察してくれた様子のアマネが後を追ってきた。
「どした? レオさん」
 不思議そうに問うアマネを前に背を丸めて答える。
「嬢ちゃん……えっとォ……この菓子のレシピ、教えてくれねェ?」