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Nail gun -釘打ち機-


(2)

 今日のレオンハルトは当直明けである。そのことを何度も確認したヤトは、彼の退勤時間と重ならないよう早々と部屋を後にした。そして駐屯地へ向かう前に本部へと出向き、御膳署直轄の食堂を目指した。
 軍に身を置くようになって以来ヤトはここの常連だ。何も知らなかったヤトに、この世界にはこんなに美味しいものがあるのだという感動をくれた、飾り気もなく、常に人で溢れ返った賑やかしい場所。ヤトはここがどこよりも好きだった。
 昔馴染みの老署員に、今日もいつものかと言われ、頷こうとして「いえ」と返した。珍しい、ご要望があるんかいおチビ少将と笑う皺深い顔を、ヤトの横に居た軍人らしき人間がギョッとした様子で睨み付けた。その不躾な目に気付いた老署員が矍鑠とのたまう。なんでぇ、誰がどう見たってチビだろうよ、なあ、おチビ。その言葉を聞きヤトが素直に頷く。
 足早にバツの悪い様子で離れていく軍人をヤトも老署員も気に留めない。ヤトは言う。「ハンバーグ? が、食べてーです」それを聞いた老署員が一際大声で笑い、後ろにいた割烹着姿の面々に向かって叫ぶ。半人前共、おチビがハンバーグを御所望だ、気合い入れて作りやがれ。すぐさま、了解です、との言葉が響き渡る。
 その中の一人が別の言葉を返す。味付けは何が宜しいでしょうか御膳署長、と。老署員は叫び返す。ばっきゃろう、何で儂に聞くんだよ、おチビに聞け鼻ったれめ。怒鳴られた年配の男性が失礼しましたと叫びヤトに向き直る。何が良いかと尋ねられヤトは短く答える。
「ドロッとしてなきゃなんでもいいです」
 そうして運ばれてきたそれは、ふわふわとして肉汁たっぷりで三枚も重なっていて、予想通り何かが物足りなかった。
 黙々と口を動かすヤトのテーブルに、早朝の仕事を終えて帰るらしい老署員がやってきて「おチビ、良かったなあ」としみじみ言った。口いっぱいに肉を含んでいたヤトは、視線だけで「何がですか?」と返した。
「ここの飯じゃ満足できないような、大好きな何かを見つけたんだろう? おチビ、それが食い物だったら儂にも食わせろ。女だったら遠慮してやらあ」
 言い残しがっはっはと笑って立ち去る背中を眺め、咀嚼を終えた肉を飲み込みヤトは呟く。
「やだよ。俺ももっと食いてーのに我慢してるんですから」

 レオンハルトは毎日毎日色々な料理を作ってくれた。ヤトが覚えている限り、色形がまるきり同じものは主食以外になかったと思う。出されるまま幸せに酔いしれながら全てを平らげていたヤトは、久方ぶりに立ち寄った食堂で肉を齧りおやと思った。どうにも味気がないのだ。
 御膳署は、数多の職があるこの国でも最難関と言われる狭き門である。日々研鑽を積んでいるらしい署員の腕が落ちるはずがない。美味しくないのではない。しかし明らかに、以前のような感動を感じなくなっていた。
 ヤトはレオンハルトにこの発見について話してみようと決めた。あなたのご飯の方がずっと美味しいと伝えたらどんな顔をするのだろう。ほくそ笑みつつ食後のデザートを頬張ってヤトは切り出した。「これめちゃうめー。あのねレオ、」
「マジで? 嬢ちゃんに同じモンあげたんだけどよォ、司令に出したら旨いって言ってたって連絡くれてよォ……オレの趣味、司令にバレちまった。どうしよ、明日っからどんな顔して会えばいい?」
 真っ赤な顔は見たいと望んでいた以上に輝いていた。ヤトは苦味の増した菓子と共に言葉を飲み込んだ。このままではだめだと悟り決意した。
 最初は夕食を減らした。昼食はもともと、レオンハルトに無理をしないでと伝えてあったので、互いの休みが合う日だけと決まっていた。月に二日あるかないかのこれは頑張っている自分へのご褒美として許可した。そして最近は、朝食も今日のように済ませることが多い。
 夕食も食堂で摂ったヤトは、もう少しどこかで時間を潰そうかと考えたものの結局そのまま帰ることにした。今後の食費について話し合う必要があったのも理由のひとつだったけれど、何より無性にレオンハルトに会いたかったのだ。
 通い慣れた部屋の前で足を止めた。癖になってしまった玄関前での深呼吸を二度繰り返した。
「戻りました」
 ヤトは努めて平静に、緩む頬を引き締めて颯爽と扉を開けた。心中は舞い上がらんばかりであり、入ってそこにレオンハルトの姿を認めたならば、きつく抱き締め離したくないくらいの気持ちでいる。寧ろ、ちょっと離れて余計な布やあれこれを剥ぎ取った後で全身を使ってホールドし、くっついたり離れたりがっついたりしたいと思っている。けれどそれはちょっと、さすがに格好悪い。ヤトは兎角、レオンハルトの前では良い格好をしたいのである。
 しかし今日は格好をつける必要がなかった。
「あれ? レオ、いねーの?」
 いつもの調子のお帰り、が聞こえない。だからといって落ち込むことは許されない。声を聞く機会を減らしているのは他ならぬ自分だと重々承知しているのだ。
 部屋の明かりをつける前に、ヤトは冷蔵庫に貼り付けられたメモを見付けた。同じ場所に貼ったレオンハルト宛のそれがないことも確認した。メモはちゃんと彼の手に渡ったらしい。「解読できたかどうかはわかんねーけどね」

 機科の若ェ奴らの飲み会に顔出してくる。
 メシあるから腹減ってたら食え。

 声に出して読み上げれば、下町育ちの粗雑な男、と印象づけられるであろう文面を見てヤトは笑う。しかし、柔らかな手触りの厚手の紙の上に綴られたこれを見れば、誰もが真逆の想像をするはずである。
「なんですかこの綺麗な字」
 指でなぞった深い青色のインクは、レオンハルトの皇軍服の彩と良く似ていた。色の名前を知らなかったヤトは見たそのままを記憶した。次の給料日にはこの色のベルトを買おうと決め、メモ用紙を魔力で覆い劣化を防いだ。そうして暫し文字とインクの美しさを堪能したヤトは、メモの内容を吟味精査するべく頭を切り替えた。
「飲み会って。飲めねーってのに大丈夫かな、あの人。で、機科の若い奴らって誰ですかね。新兵?」
 仄暗い思いに反応した魔力が眼前に浮かんでいたメモをひらと揺らがせる。
 これ以上魔力を当ててたら消し炭だ。
 ヤトはメモを自室へ運び、大切なものはここと決めたサイドボードの上に置いた。隣に鎮座ましましているのは己程度の収入では手の出せない特級酒である。「親子揃って綺麗な字ですね」と呆れた笑いを零しつつヤトが冷蔵庫の前へ戻る。
 そっと扉を開け中を確認し閉じた。数秒考えて再び冷蔵庫を開き、手前に置かれていた肉料理を取り出し手掴みで一かけらを口に入れた。
「うま……」
 旨い。けれど、まずい。
 これ以上舌を肥えさせてしまっては、レオンハルトの優しさに甘えてしまっては、仮宿であるはずのここから出ていけなくなってしまう。
 胸の内のレオンハルト用の空間は、ほんのひと月足らずで倍以上に膨れ上がり軋みを上げていた。
(ここも魔力で覆えればいいのに)
 ヤトは胸に触れる。
 ちょうどそのとき、臀部で小型の機械が音を立てた。素早く取り出し相手を確認し、ヤトは仕事用の声で応じた。
「はい、ヤトです」
『クラウスだ』
 有事に構えていたヤトが、男の声色を聞き肩の力を抜く。
『急ですまないが、今から時間が取れるか?』
「大丈夫ですよ。あなたが勤務時間外に連絡寄こすとか珍しいな」
 ヤトが言うと、男は心底すまなそうな声で続けた。
『勤務中にはし難い話で──』
 がやがやとした声が受話口から聞こえる。司令、お疲れ様でした。司令、今度飲みましょう。司令、司令。
『──もしもし。すまない、場所は』
「あー、クラウスあなたまだ駐屯地にいますか?」
『そうだが』
 ヤトは一瞬迷った。けれど、手の中の料理を見て、レオンハルトの顔を思い浮かべて腹を決めた。
「だったら俺のところへ来て下さい。仮ですけど転居届出したの見ました?」
『ああ、レオンハルトの部屋だったな』
「そうです。あ、クラウス。ツマミはあるので酒宜しく」
『了解した』
 良いやつお願いします、と一方的に伝えヤトが電話を切る。
 あの男がどんな酒を用意するつもりかはわからない。けれど、そこそこの良い酒を用意してもらわなければ割に合わない。
「なにせ、あなたには勿体ねー位のツマミなんだから」
 見渡した自室は埃のひとつも浮いていない。夜遅くに帰ってきた日も、夜明け前に家を出た日も、何の不平も言わず鼻歌交じりで家事をこなすレオンハルトを思い出し、ヤトの胸が再度ぐうと詰まった。顔を見るたびに感謝を伝えているけれど、はにかむ彼は苦い菓子を齧った日ほどに輝いては見えず、やるせなさばかりが募っていった。
 出ていきたくないのに会うのが辛い。でも顔は見たいし、声だって聞きたいし、もちろんご飯だって食べてーし。
「やー。コイって難しいんですね」
 レオンハルトへ抱くこの想いは恋というらしい。彼と出会った日に始まったこれはいつどうやって終わるのだろう。
「苦しくない最後だと、いいな」
 考えながら料理を部屋まで運ぶ。歩きながらつまみ食いを試みたヤトは、響いた呼び鈴に手を止めさせられた。
「これで構わないか」
 挨拶もそこそこに差し出された酒を見て、ヤトが「うわ」と声を上げる。
「あなたもそういうの持ってくるの? 貴族の皆さんの間ではこれが一般的なんですか?」
「一応上司としての面目が立つ酒を見繕って持ってきたつもりだが」
 上司であり、ヤトと同い年の友人であり、レオンハルトの想い人であるクラウスは、「気に食わなければ持ち帰るぞ」と言い小さく笑った。

 ぶっと噴出し掛けたヤトは酒を急いで飲み込んだ。本来そんな風に飲むべきではない美味しい酒だけれど、クラウスが持ってきたものなのでヤトの胸も懐も痛まない。
 酒瓶のラベルには、帝国の国章にも描かれている【葉】が連なっている。五枚が対象に連なったそれが、酒や食材やその他諸々の品質を保証する証である、ということは万事に疎いヤトも知っていた。
 涼しい顔をして酒を煽るクラウスは、ヤトよりも遠慮なく料理を摘んでいる。暑い日も寒い日も変わらず黒い七分袖を着ている彼は、盛装をすれば皇帝陛下に次ぐ数の【葉】を身に纏うことになる。なにせ無遠慮で表情筋の動きが乏しいこの男、現皇帝陛下の実弟であり、自身も名前に帝国の名を冠する皇弟殿下なのである。
「あの……クラウス、もう一度言って貰えます?」
「先日の帝国議会に於いて、ヴォルフガング卿が同性の婚姻を認める法律制定に関して意見を陳述した。リヒトですら口を挟む暇もない素晴らしい演説で、終わった頃には……皆、息も忘れる程だった。よって今、業種身分出身を問わず、広く意見を聴取している最中だ」
「ああ……そうきましたかあの策士殿……」
 ヤトの脳内に、城下町が占拠され街道が踏破され、外堀を埋められつつある城塞の図が浮かんだ。またかの人が表立って動いたということは、堀の大方は埋め尽くされ、水面は薄ぅく、城主に知られない程度にのみ残されている可能性が大である。
 珍しく連絡をしてきたと思えばそういうことか。
 納得したヤトは、この男に悟られる程レオンハルトに対する態度は分かりやすかったかと舌打ちをした。そうして、今まで以上に己を律しようと誓った。
「何か思い当たることがあるのか?」
 誓った矢先、何とも言えない声色のクラウスから尋ねられた。
「はい? あなた、知ってて俺のところに来たんじゃねーの?」
 ヤトが目を丸くしてクラウスを見遣る。
「知っていた……わけではない」
 クラウスは緑色の目を泳がせ口籠もる。彼のこんな姿を見るのはヤトも初めてだ。
「よって確認するが、ヤト、お前はレオンハルトと恋仲なのか?」
 ヤトはすぐには答えずクラウスの顔をじっと眺めた。彼の顔にはどうなのだ、という疑問のみが浮かんでいる。嘲りも排斥も唾棄も、レオンハルトを傷付けそうな全てのものはそこにない。
「……残念ながら俺の片思いですよ。告って保留中」
 そうか、と頷いたクラウスは瞠目していた。けれどやはり、ヤトが注視する限りでは負の気持ちは感じられない。
「それで、お前はどう思う」
「そう、ですね」
 少し考えたヤトはサイドボードへ視線を移した。並べた二つの大切なものは片方が威圧感を以て、もう一方が包み込むような優しさを持ってヤトを見据えている。
(わかってます。俺、あなたたちの前で嘘は吐かねーです)
「俺は国の保障とか個人の権利だとかいうものに興味がありません。だから法律云々はどうでもいいです。けど、これでレオが──……うん、素直に嬉しいな」
 ヤトは目を細め、数年前のあの日を思った。薔薇の花弁を貼り付けて泣いていたレオンハルトは頼りなく切なく、それでいてとても綺麗だった。
(俺はあの日から今日までの分しか知らない。だけどレオは、きっともっとずっと前から悩んで苦しんでいたんだろう。それを和らげる方法があるのなら俺はどんなことでもしてあげたい。たとえ策士と名高いお父さまの計略に乗る形でも)
 黙り込んだヤトをクラウスは急かさなかった。手酌で酒を飲み、次の言葉を待っていた。
 ヤトもぐいと酒を煽る。それから細く息を吐き出して、酒瓶の向こうの淡い憧憬へと宣誓する。
(ただし。俺がどれだけ好きでも、あなたの息子さんが嫌だって言ったら、手、出せねーですからね? 望み薄なので、あんまり期待しねーで下さい)
 視線を投げると瓶口に掛けられたタグが煌めいたように見えた。鬼をも泣かせると評された伝説の男の笑い声を聞いた気がして、ヤトは小さく身震いをした。
「あー、ですので、法が今後制定されてもされなくても俺は満足です。……すげーな、あの人」
「わかった。参考にする。無理させず口説け」
口角を軽く上げてクラウスが言う。「うわそれあなたが言いますか」とヤトが返せば、「どういう意味だ」と憤慨された。
「そのままの意味ですけど。あなたさ、どんな顔してゴアイサツに行ったのよ」
「国と軍の皆には申し訳ないが……先の大戦よりも緊張したので全く覚えていない」
「あなたさ、それ軍のみんなには言わねーほうがいいと思うよ」
「全く同感だ」
 一頻り笑い合い静かに酒を飲んだ。グラスを空けたヤトが「クラウス」と声を掛ける。
「あなたのことだから、俺のことだけじゃなくて色々気付いてるんでしょう。けど、レオにはあなたが知ってるってこと、言わねーで下さい。レオが自分から切り出すまで。お願いします」
 クラウスは目で頷き「約束する」と言った。
 レオンハルトが惚れたこの男をヤトは嫌いになれない。兄を支え国と民を第一に考え、身分や異端に厳しいこの国を変えようとしているクラウスは、己の心身一つ満足に扱えないヤトには眩しく感じられた。
 まったく、レオの周りはどうなっているのだろう。クラウスといい陛下といい、敵いそうにねー奴ばっかりじゃねーかこのやろー。
 クラウスが残り少ない酒をヤトに注ごうとした。と、ヤトの電話が本日二回目の呼び出しを告げる。ヤトがクラウスに断って画面を見ると、そこには『機科』の文字が浮かんでいた。
 機科の誰かに呼ばれる理由をヤトは一つしか知らない。残りの酒をクラウスに押し付けヤトは電話を取った。
「ヤトです。レオになにか?」