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「ヤ、ト、ちょっ……ちょっとぉ……──ちょっと待ちやがれ!」
「痛ぁっ! 髪は止めて下さい!」
 上がった息を整えつつ、レオンハルトは膝の上の男を引き剥がした。男──ヤトの、小柄な癖にしっかりと筋肉のついた体は柔軟にしなり、レオンハルトに握り込まれた髪を一本たりとも失わせまいとしている。
 レオンハルトを涙目で見上げる顔は歳の割に幼い。
(二つしか違わねェはずなんだけどな)
 などと状況にそぐわぬことへ努めて意識を傾け、レオンハルトは少しでも顔の火照りを冷まそうとした。
「オレは! あー……オメェのこと嫌いじゃ、ねェ。けど」
 ごくりと唾を飲み込み、先程まで自棄酒を煽っていた理由たるひとのことを想う。
 澄んだ緑色の目で常に前を、この国の先を臨み歩くそのひとが、未来の伴侶を皆に紹介したのは三日前だ。彼の腕の中で揃いの黒髪を揺らし頬を染めていたのは、小柄で若く当然ながら……女性だった。
「けど、今は、他のヤツのこと考えたりなんかできねェ」
 飲めない酒をどれだけ煽っても酔えなかったレオンハルトの荒んだ三日間は、同期の友人ヤトの訪問によって終幕となった。数年前のあの時も今回も、レオンハルトが心底苦しいときに支えてくれたこの男は、本日午前を以て細君と離婚し帰る家が無くなったのだという。しかもその理由がこともあろうに「……何でオレなんだよ」
「はい?」
「や、何でもねェ。えっと、だから」
 理由はともあれ。ヤトはレオンハルトの一番の友である。少なくともレオンハルトはそう思っている。その彼が切々と、若干強引ながらも真摯に告げてきたことを足蹴にできるほど、レオンハルトは情の薄い人間ではない。
「わかりました」
 レオンハルトの言葉を待たずヤトが切り出す。もう一言続けようとしたらしい彼を遮り、レオンハルトは今の素直な思いを続けた。
「だから、もうちっと、時間くれるか?」


Graph paper -方眼紙-


「ご馳走になってすみません」
「あ? いいっての。ちょうど食材がダメになりそうだったしよ。全部食べてもらってありがてェくらいだ」
 そう言って笑うレオンハルトを、腹の満たされたヤトは目を細めて眺めた。
 黒い円形のテーブルの上には、二人で食べたとは思えない数の空き皿が並んでいた。それらが手際良く片付けられるのをぼんやりと眺めていたヤトは、キッチンからの問い掛けに「何でしょうか」と答えた。
「オメェこれからどうすんのよ。家……ねェんだろ?」
「はい。慰謝料と一緒に鍵も渡したので多分入れねーですね。ここに来る前、宿舎管理棟に寄って来たんです。けど、今将官用もヒラ用も空きがないらしくて」
「一昔前は空きも入れ替わりも多かったって聞くけど……平和になったってことなんだろうなぁ」
「そうでしょうね。なのでまあ、しばらくは近くの宿に仮住まいかなと考えてます」
「ふぅん」
 レオンハルトが手を拭きながらリビングへ戻る。それからヤトに茶を渡し、空いた手をつと伸ばすと、近くのラックから紙を一枚引き寄せ呟いた。
「オレ、結局オメェん家行かなかったなあ」
 茶を飲んでいたヤトがひたと止まり、「それは、まあ」と苦い顔をする。あなただけは呼びたくなかったので、と続けても、ペンを握ったレオンハルトは何かを考えている様子でヤトを気に掛ける素振りもない。レオンハルトは何かに集中しだすと周りが見えなくなる性質なのである。
 こっちを気にしねーのは面白くねーけど、と、ヤトは思う。面白くはないが、黙考しているレオンハルトの顔は大変好ましいので悩ましいところだ。
「オメェよ、どんなトコ住んでたの。場所は貴族連中の多いトコだったって知ってっけど」
「俺の部屋、ってことですか? 寮に住んでた頃とほとんど一緒ですよ。大きめのベッドと小さいカウンターテーブル置いて、シャワールームがあって、後は服以外何もねー感じの……あなたさ」
「うん?」
「相変わらず器用ですね」
 中空を見ていたヤトがレオンハルトに視線を戻し、呆れと感嘆の混ざった声を出した。レオンハルトの手には小さな正方形が整列した薄手の紙がある。そこには今ヤトが答えていた部屋の間取りが正確に書き込まれており、はっきりとは読めないものの、テーブルの高さやベッドの大きさといった細かな数値までもが並んでいるのだろう。
「細けェ作業は好きだからな」
 レオンハルトの手は身体に見合った大きさと厚さをもっている。その手がこんな細かな図面だとか、大型の魔動製品といったものを作り上げることを知っている人間は多い。が、砂糖細工付きの菓子や、ほろほろに崩れるまで煮込んだ肉料理などをも作ることを知る者はヤトを含め極僅かだ。
 ヤトは初めて彼の手料理を食べた日の感動を忘れられない。変なことを相談した礼だと言い、そっぽを向かれながら渡されたリュックいっぱいの幸せは、すっかりと消化された今も色褪せず心に残っている。そうして、やっぱり俺、この人好きだな、とヤトは思う。
 レオンハルトは紙を手にやおら立ち上がると、ヤトの後ろにある扉の方へ歩き出した。ヤトも姿を追うように視線だけを動かす。
 レオンハルトが開けた扉の先は物置として使われているようだった。将官用の寮はリビングダイニングの他に二部屋あるのが通例で、この部屋もそれに倣った造りのようである。
「おう、ヤト」
 こっち来い、と指を曲げられ、ヤトは立ち上がった。すぐそばまで行く途中、先刻レオンハルトを押し倒した床を踏んだ。寒いと言って泣かれ、あのひとの名前を呼んで泣かれ、結局何もできずにただ慰めた。キスはできた。二度もできた。それだけでも満足とするべきだろうか。
 そんなことを考えていたヤトは、不意にレオンハルトの掌の温かさを感じ顔を上げた。
「ちっと貸せや」
 身体の奥から魔力が引きずり出され、繋がった場所を通り渡っていく。その感覚は戦場で慣れ親しんだそれだ。
(でも、どうしてここで)
 レオンハルトは紙を握った手を物置の扉に当てた。パリッという魔力の放たれた音と一瞬の閃光の後、扉の奥はヤトが見慣れた造りへと変わっていた。
「どうだ? どっか違ってっか?」
「はい? いや、俺の部屋まんまですけど……え?」
 ふう、と息を吐いたレオンハルトがヤトから手を離す。温もりが離れて残念だ、ということを、疑問符で頭を埋め尽くしたヤトが考える暇はない。
「家がねェっつって困ってる友達を放り出せるかよ。物置に使ってた部屋だから、オレの荷物でゴチャゴチャだけど、後で片付けっからとりあえずこれで我慢しろ。服は買ってこい。さすがにシャワールームは付けられねェから風呂はあっちの使え」
 レオンハルトが次々に言うこともまた、ヤトはしっかりと聞くことができなかった。
 友達。レオンハルトははっきりとそう言い、ヤトの肋骨の奥が嫌な音を立てた。衣、食以外のなにかにつけてもがらんどうだったヤトの胸には、遠いあの日レオンハルト専用の空間が作られた。小さかった空間は日に日に大きくなり、比例して脆く危うくなっていった。
「──ヤト? 聞いてっか?」
 弱ったところに付け込んで押し倒しキスをして、あわよくばとその先を狙った。そんなヤトに掛けられる言葉も顔もこれまでと変わらず優しく甘い。育ちが良い、だけでは言い表せない懐の深さをレオンハルトは持っている。だからやはり、諦めがつかないくらいヤトは彼が好きなのだ。
「レオは、本当に良い人ですね」
「へ?」
 ヤトは不思議そうに首を傾げるレオンハルトへ笑い掛ける。
「捨て猫とか放っておけないでしょ、あなた」
「う。よく、わかってんじゃねェか。ここじゃ飼えねェからよ、実家に送るんだけど」
 お袋にもう拾ってくんなって言われたんだよな。そう照れて俯くレオンハルトの背中をヤトがぽんと叩く。
「俺、猫みてーにかわいくねーですしメチャクチャ食べますけど。いいですか?」
 ぱっと顔を上げ大きく頷くレオンハルトは満面に笑みを湛えている。ヤトは何度だって思う。
(俺はこの人が好きだ)
「では、お言葉に甘えてお世話になります」
「おう」
「で、早速ですけどシャワー借りてもいいですか? それと申し訳ないんですが、今日だけ着替えを貸して下さい」
「わかった。今用意するから待ってろ」
 レオンハルトが軽い足取りで自室に向かう。彼を温かい気持ちで見送ったヤトは、消えた背中へと小さく呟いた。
「友達っていう一言で傷付くには贅沢過ぎるでしょ、俺」