俺はこの一発に勝負を懸ける。


誘発


 今日のヤトの勤務地は【淵】だった。
 監視塔から受けた事前連絡の通り、あちらの真暗の中を無数の鈍色が這い摺り回っている。また、その内のいくつかはこちらの日の下に悍ましい尾や脚を曝け出している。
 ヤトはその様子を岩壁の縁に立ち見下ろしていた。背後の一同から呻き声が上がり、ヤトは靴先で軽く岩肌を蹴った。響いた音を上官の怒りだと捉えたのだろうか。青白い顔をした部下達が押し黙った。ヤトは単に靴の具合を確認しただけである。
 ヤトは出立前の作戦本部で、今回の隊は経験の浅い兵を中心に編成したい、と上司に進言した。少し思案した上司は諾と答えた。ただし私も同行する、と付け加えた上司に、ヤトは了解しましたと頷いた。「精々しごいてやって下さい、クラウス司令」
 だから呻くくらいは想定の範囲内だ。吐瀉音がないことを褒めても良いかもしれない。ヤトは上体だけを動かし斜め後ろを見た。腕を組み目を細めていたクラウスが視線をヤトに向け軽く頷く。
「が、少々数が多いな」
「近年稀な数ですね」
「先に少し減らすか」
「そうしましょうか」
「二、三体で十分だ」
「了解しました。では、行ってきます」
 ヤトは乾いた礫を踏み大きく跳躍した。軽い身のこなしで急勾配を駆け降りて、こちら側を侵さんとしているものの前に立つ。絡み合っていた何体かが闖入者に気付き、節を繋げた体をずるりと反転させ咢(あぎと)をかぱりと開いた。
 ヤトは周囲を見回した。
「あれとあれ、あとあのでっけーのを残せばいいか」
 決めたときには手刀が咢を貫いていた。手近なものから順に駆除を続けた。

 任務を終えた一行は四日振りに中央駐屯地へと戻った。今日の帝国インテグラルは曇り模様だったものの、真暗に慣れた一同の目は微かな光にも過敏に反応した。くしゃみをしたり目を覆ったりする彼らを横目に、ヤトは控えていた補給部隊へと歩み寄った。一番大きな包みを受け取って、躊躇いなく外装を燃やし中身を取り出した。
 ヤトは清涼飲料水をクラウスへ投げた。片手で受け止めたクラウスが眉根を上げる。
「ありがたく頂く」
 ヤトは頷き、同じものを一息で飲み干し、二本目を開けつつクラウスを見る。
「どうでしたか?」
「初戦であればこんなものだろう。とは言え、反応は遅くとも動けない者がいなかったのは感心できる。見込みがあるな」
 クラウスが薄く笑う。
「そうですか。意外と肝座ってんの多いのかな」
 ヤトは「やるじゃねーですか」と独り言ち、息を荒げて座り込んでいる部下達を眺めた。若い女性兵が髪と皇軍服をべとべとに汚したままで口元を押さえている。ヤトは近くにあった精製水のタンクを手にし、彼女に近付くと頭上からそれを浴びせた。驚き慌てふためいて、「不甲斐なくて申し訳ありません!」と泣きじゃくりながら頭を下げ続ける彼女にヤトは言う。
「それ、そのまんま乾くと落ちねーらしいので。服はともかく、髪は困りませんか?」
「え……あ、ありがとうございます」
 近くで見ていたクラウスが、もう少し遣り様があるだろう、と苦笑する。「それで? ヤト」
「お前はもう少し早く戻ってこられた筈だが。普段の三倍は時間を掛けていたようだな。釈明があるなら聞こう」
 クラウスが顎をしゃくり歩き出す。
「あー、お守りを任せてすみませんでした」
 ヤトもクラウスの後に続き隊から離れる。木立の陰で立ち止まり振り返ったクラウスに「実は」と切り出す。
「あれ、時期外れの繁殖期だったみたいです」
「……そうか。では」
「はい。潰せるだけ潰してきましたけど、見えねーところに多分」
「監視を強化するよう指示を出す。……陛下にも報告する必要があるな。了解した、ご苦労だった少将」
「はい。ってか、うーん」
「まだ何かあるのか?」
 面持ちを変えたクラウスがヤトを見遣る。ヤトは少し考え、思い出しつつ答える。
「あれって、交尾するんですね」
「そうだな」
「しかも雄だか雌だかわかんねーですけど、くんずほぐれつ大乱交で何回も入れては出してはして」
「そう、だな」
「あれにもできるのに何で──」
 ヤトは大きく溜息を吐く。
「何で俺、一回しかできねーの」
 正直、妬ましい。妬ましくてずっと見ていたごめん。
 そう言い切り、ヤトは再度大きく大きく溜息を吐いた。
 暫くの静寂の後、ヤトの背中をクラウスが叩いた。
「……今度、飲むか。奢ろう」
「旨い酒、よろしく……」
 項垂れるヤトの背をぽんぽんぽんとクラウスが叩いた。同い年の友人の心遣いをヤトはありがたく受け止めた。



 現在ヤトは、彼のこれまでの人生の中で最も至福のときにいる。
「戻りました」
「おうお帰り。出張お疲れーって、」
 出迎えてくれたレオンハルトはエプロン姿でお玉を握り、腰に手を当て苦い顔をした。「うぇえ」
「酷ェ格好してんなァ! オメェそれ水に浸けとけよ。食ったら洗うから」
「わかりました。ありがとうございます。先に風呂借りますね」
「おう。今日は嬢ちゃんからいい肉貰ったからな。楽しみにしとけ」
 にこりと笑うレオンハルトへヤトは近付き、キスを「上がってからにしろよ!」する約束をして浴室へ向かった。

 皇軍に籍を置き十数年。ヤトは同期として出会ったレオンハルトに恋をして、己可愛さ故手を出せずにただ眺めていた。一番の友人になれたものの、彼にその気はないと思い隣でずっと見ていた。
 ある日彼が同性愛者だと知り、それならば自分にもチャンスがあると考えた。彼が泣くほど困っていたので、彼と見合いの予定だった女性宅へ赴き俺と見合いして下さいと言った。一度会えば終わりだろうと高を括っていたのだけれど、予想以上に気に入られてしまい、友人第一仕事三昧で家庭は顧みないと伝えた上で結婚をした。
 数年後、彼が恋破れて滅入っていると知ったとき、彼のために暫く帰らないと伝えたヤトに妻はもう帰って来なくてよいと言った。これ幸いと離婚届を目の前で書き、泣いて謝る妻を契約不履行だと睨み付け名前を書かせ、多額の慰謝料と家を置いて、離婚届を手に着の身着のままで飛び出した。そうして押し掛け押し倒して、待ってと言われて──見守った。指とフォークを銜えてだ。
 とことん自己中心的で弱腰だったヤトのどこが良かったのだろうか。庇護欲を掻き立てられたのだろうか。とにもかくにも男気溢れるレオンハルトは絆されてくれたらしい。まこと不可思議極まりないけれど、惚れて焦がれた大好きな人は晴れてヤトの恋人になったのである。

 レオンハルトが作ってくれる美味しいご飯。レオンハルトが片付けてくれる清潔な部屋。レオンハルトが向けてくれる温かい笑顔。ヤトは毎日幸せである。
「ん、ぁ」
「レオ」
 そして新品の二人掛けのソファとそこで味わうレオンハルトの唇。赤くしっとりとしている彼の唇は、いつでも噛みつきたいくらいに熟してヤトを受け止めてくれる。返す返すも幸せである。
「ヤ、ト、めし……」
 膝の上に乗せたレオンハルトが身を捩りながら喘ぐ。
「もうちょっとなら大丈夫」
 ヤトはちゅくちゅくと舌を絡めて唾液を啜り上げた。舌の横をぬるぬるとなぞり、上顎の裏を舐り、また舌を絡める。ヤトよりも逞しい肩を指先で擽り、二の腕を撫ぜ、柔らかい肉を目指して袖の隙間から親指を差し入れる。
「あっ、や、ぁ」
 指の腹で脇のすぐ傍の皮膚を撫でる。
「ここ、すべすべで気持ちいーですね。レオも気持ちいい?」
「ぅん、う、あぁ、っあっ!」
「まだ掠めただけですよ、レオ」
 手首がレオンハルトの胸の尖りに触れた。既にこりこりと立ち上がっているそこを、ヤトはわざと触れずに放置した。レオンハルトは背筋を伸ばし、ヤトの腕に胸を近付けようとして慌てて背を丸めた。ヤトが顔を見ると、真っ赤になったレオンハルトが目を見開き首を横に振る。「ちが、ちがうオレ」
「あーもう可愛いなあなたは」
 ヤトがちゅっと音を立てて首筋にキスをする。レオンハルトが小さく啼いてヤトの首に縋り付く。どこに触れてもぴくぴくとするレオンハルトにセックスの経験がないと知ったのは恋人となったその日だ。男性とも、無論女性ともである。キスも未経験だったそうなのだけれど、そこはおつきあいというものを始める前にヤトがきっちり頂いていた。
 腰をくねらせたレオンハルトの中心がヤトの胃に当たる。衣類の締め付けが嫌いらしいレオンハルトは、家では柔らかく肌触りの良いものを好んで身に着けている。それらは総じて肉のまろみやかたちを隠すのに向かない。あっ、と声を出し、離れようとしたレオンハルトの腰へ手を添える。必死に離れようとするレオンハルトを片手で悠々と制し、ヤトは鍛え上げられた腹筋でそこを弄る。
「や! だ、め、あっぁ!」
 ごりっとして熱い昂りが擦れる。ずるずる動く感触と共に小さくぬちゅりと音がした。彼の下半身を覆う布二枚の下はもう先走りで溢れているらしい。ちょっと濃厚なキスしかしていないのにこの様子では、この後続く行為で彼はどうなってしまうのだろう。
 かく言うヤトもレオンハルト以上にギチギチなので、今し方の考えは訂正しなければならない。
「全部食べてーです」
 上擦った声でヤトは言い、浮いて揺れていたレオンハルトの腰を曳き付け自身の腰に押し当てた。ひう、と体を反らしたレオンハルトがヤトの肩を掴み、砕かんばかりの力で握り締める。
「……っし」
「さすがにちょっといてーですよレオ。なに?」
 勃ち上がった肉をレオンハルトの袋に添わせヤトは嘯く。戦慄いていたレオンハルトはすうと息を吸い込みヤトの耳元へ顔を寄せる。
「──メシ! 食え! 死ぬぞ! バカ!」
「うゎおっ!」
 レオンハルトの叫びはヤトの鼓膜と心と腹に響いた。ヤトの腹がぐうと鳴る。
 そう、このまま行為を続ければ彼ら二人はどうなるか。帝国のトップニュースを飾るであろうその答えは
『ヤト少将、腹上死す。傍にレオンハルト少将か?』
 である。

 ヤトは非常に燃費が悪い。比喩ではなく本当に悪い。友人の未来の妻の国の計算式に則って算出すると、基礎代謝は2550kcal、体脂肪率は平常時5%、任務終了時で3%近くまで落ちる。熱量貯蔵庫が常人よりも極端に少ないヤトは、座っていても失われていくそれを能動的且つ定期的に摂取しなくてはならない。
「おう、旨いか?」
 口いっぱいに肉を頬張り笑顔でヤトは頷いた。レオンハルトも満足そうに笑う。「ワギュウっていうらしいぞ、その肉」
「柔らかくてメチャクチャうめーです。また食いてー」
「だろ? 嬢ちゃんトコで味見させてもらってよ、オレもそう思って失礼だケド値段聞いたんだ。貰いものだ、自分で買ってない、って言ってたけどよ……アレ」
 レオンハルトがヤトの後ろを顎で示す。
「どれです?」
 ヤトは振り返り見るも何のことを言っているのかわからない。
「こっちでいうと……あのソファくらい」
「はい!?」
 ヤトは残り半量となった皿を指差し叫ぶ。「これだけで!?」
 レオンハルトは静かに首を振る。「違ェよ」
「オメェがさっき口にぶっ込んだ分で、だ」
「ちょ……もっと早く言って下さいよ!」
 味わって食べればよかったと嘆くヤトにレオンハルトが怒鳴り返す。
「バッカ! あのなあ、悠長に食ってる余裕なんかなかっただろっつうんだよ!」
 今死なれちゃ困るんだバカヤト。
 ぼそりと言ったレオンハルトが赤い顔でそっぽを向く。それを見てヤトは素直に反省する。
「ごめんなさい。気をつけます。レオ、毎日ありがとうございます」
「……うん。おかわりは?」
「頂きます」
 肉以外の皿に再度同じ分量を盛り付けてもらい、ヤトはまた幸せを味わう。
 家事一切が少しも──誇張ではなく皆目──できないヤトにとって、レオンハルトの腕は崇め奉る対象である。料理洗濯掃除諸々を引き受けてくれているレオンハルトの負担はいかばかりなのだろうか。
 おつきあい、というものを始めてから、ヤトは「迷惑を掛けてごめんなさい」は禁句にすると決めた。深夜、温かい料理を作ってくれたレオンハルトにそう言って大層怒られたからだ。オレが好きでやってっからいいんだよバカ、と。
「うん。美味しいです。ありがとうレオ」
「わーったから冷める前に食え」
 代わりにヤトは何度でもありがとうと伝える。すると必ずレオンハルトは照れたように笑って喜んでくれる。ヤトは好きな人が己の拙い言葉で喜んでくれる喜びを知った。ヤトは何度だって思う。俺は今幸せだと。
 だからヤトはレオンハルトにも同じだけの、可能ならばそれ以上の幸せをあげたいと願ってやまない。ヤトは色々と考えた。物質的な幸せは良いところの御子息であるレオンハルトには響かないと知っていた。そもそも碌な知識もない、野良育ちの自分が持っているのはこの小柄な身体ひとつである。だったら身体でお返しをしよう、と思い至るまでさほど時間は掛からなかった。
 本日帰りしな、手刀や脚を振るい得た賃金が全てレオンハルトの口座へ入るよう手続きを済ませてきた。面倒なそれが数分で済んだのは全て、あれらの体液に塗れた物騒な客へ笑顔を絶やさず対応してくれた窓口の女性のおかげである。間違いなく、この数日で一番肝が据わっていた人間だとヤトは感心した。
 さて、そうなれば後は思う存分性技と腰を揮うだけだ。
 レオンハルトが汚れた食器を手にキッチンへと向かう。鼻歌に合わせてふりふりと揺れる腰を見て、その奥を想像して、腹の満たされたヤトは気合を入れる。
(今日こそ性交……もとい成功させてやる。いやそこまでは望まずとも、まずはくまなく触りまくってやる)
 おつきあいが始まって五日目現在、ヤトは未だレオンハルトのあれやこれに触っていない。恋人となった翌日から先程まで、仕事で彼の元を離れていたヤトにとって今日は久々の逢瀬なのだ。
「だから頼む息子。勝手に出さねーで」
 五日前、レオンハルトに触れられただけでイってしまった汚名を返上する。ヤトは己の意気込みを強く下半身に言い聞かせた。
「俺、一回しかできねーんだから」
 皇軍一燃費の悪い男ヤトにとって、無補給で臨む激しい運動──セックスと射精は命懸けの行為なのである。