(get)OVER.


(中)


 どこから話そうか。母様のことからかな。
 その知らせを僕たちは囲いの下で聞いたね。父様が次は薔薇を植えたいって言っていたから、誕生日までに作ろうって二人で話してさ。内緒話はいつもあの花壇の裏でしていたし、作るのにも時間が掛かったから父様にはすっかりと漏れていたのだろうけど、僕らの父様は知らないふりをしてくれたね。うん、優しい父様だった。
 父様はいつも母様に怒られてたね。そうそう、おまえが小さかった頃にね、うん? うん、僕が三つ位の頃だから、覚えていないかもしれないね。土だらけの手で僕らを抱き上げないでって怒られて、びっくりした父様はおまえを落っことしちゃったんだ。僕あんなに怒った母様はあれきり見たことがないな。おまえったらさ、顔から落ちたときは泣きもせずぽかんと口を開けて父様を見上げてたのにさ。怒られた父様が僕らを抱き締めて──ああ、ちゃんと手は洗ってからね。それからめそめそ泣き出したら一緒になって泣き出すんだもの。僕おかしくって。父様はよく泣く人だったけど……うん。そうだね。あんな泣き方は最初で最後だったね。
 母様は気がお強いけど体が弱かった。父様陰で、子供を二人も産ませるなんて、とかってさ、色々言われたらしいよ。うん、ずっと後になってから知った。言った人? もういないよ。だから怒らないで大丈夫。
 母様は薔薇が好きだったんだって。母様の部屋、鉢植えの薔薇でいっぱいだったでしょう? あれ全部父様が育てたんだよ。あるとき母様がさ、青空の下で薔薇を見ながらみんなでお茶が飲みたいわ、って言ったんだって。うん、そうその年だよ。分かっていらっしゃったのかな。女性では珍しいくらい力のある方だったからね。そういう兆しが分かっても不思議じゃないね。僕もいつかさ……うん、分かった。そのとき考えればいいね。父様は俄然張り切ったんだけどさ、土を作ったり季節を見たりしていたら、半年なんかあっという間に過ぎちゃってさ。何だかあべこべだけど、父様の誕生日までにはって毎日頑張っていたね。
 母様、全然苦しそうじゃなかったんだって。誰も気付かなかったんだって。前の日の夜にお休みのキスをしてくれたの覚えてる? うん、いつもよりも元気に見えたよね。なのにお昼に会ったらさ、僕らの腕より細い腕が胸の上で組まれてて。薄暗い部屋の中なのにびっくりするくらい白くてさ。きっと殆ど日の光に当たらない生活だったんだろうね。お顔は綺麗だったけど、体はまるで骨がそのまま見えてるのかなって思って。僕あれ以来、あんまり細い女性が苦手になっちゃったよ。
 僕らはわんわん泣いたけど、父様は……うん、凄く痛いね。止めようか。おまえが覚えていることを話しても仕方ないものね。
 父様はさ、おまえよりも間違ってたよ。え? 就職先だよ。選ぶ選ばないの話じゃなくてさ、まず向き不向きがあるじゃない。おまえは父様が皇帝に向いていたと思う? うん? うーん、まあ、そういう風に考えればありかもしれないけどさ。もう少し僕が大きかったら絶対に反対したな。え? それは勿論僕だよ。言ったでしょう? 向き不向きがあるって。僕はその点、誰よりも向いてると思うけど。ほらほら、そういう顔をしない。僕は選んでなったんだ。おまえの価値観で決めないでくれる? うん。いいよわかってくれれば。
 ええと、父様のどこまで話したかな? そうか、そうだね。ヴォルフガング卿のこともだね。僕さ、いまだにあの方にリヒト、って呼んでもらえないんだ。ううん、怒ってるんじゃないよ。ただちょっとだけ、おまえと違うんだなと思ってさ。寂しいだけだよ。優しいだけの父様と違って卿はちゃんと怒ってくれる方だからね。もう一人父様を選ぶなら僕もあの方がいいな。
 仲良しだったね。あの二人は。正反対に見えたけど、だから良かったのかな。日に日に忙しくなっていく父様にさ、遠征から帰ってくるたび卿は花の種を持ってきてくれてさ。育てる暇なんかないよ、って父様困ってて。卿はそれ見てごっちん、って。そう、ごっちん、だよ。凄いよねあの方。さすがに今のおまえでも、僕に遠慮なしの拳骨はしないでしょう? え? やめてよねわかったよ気をつけます。
 卿さ、私たちが走り回るのに合わせて動けるほどそなたは機敏ではない。もっと堂々と構えていろ。そなたの仕事は安全な場所で民を眺め、戻って来た兵を篤く労うことだ、ってさ。ばっさり言い切っててさ。周りの貴族連中に白い目で見られてたよ。卿は少しも気にしてなかったけど、父様の方が気にしちゃってさ。まためそめそ泣いてた。うん、母様の部屋でね。でもそれ以来父様が落ち着いて見えたな。できることをしようって、思ったのかな。
 父様にできることっていったら、土いじりと、薄い護りと、篤い癒しだったね。え? 薄いのは仕方ないじゃない。事実だろ?
 土いじりはさ、僕らの作った囲いからまた始めてくれたね。何でこんなところに作ったの、っていろんな人に怒られてたけど、僕らが最初ですとは父様言わなかったな。それどころか、そうそう。ちょっと痩せた腕で僕らを抱えてさ、いいところに作ってくれたね、って。あそこに石碑があるの覚えてる? そっか、そうだよね僕よりもよっぽど行くものね。今度一緒に行こうか。うん、色々報告があるでしょう? 
 母様が亡くなってから五回目の父様の誕生日にやっと、囲いの根元が華やかになったね。早く大きくならないかなって土を撫でた父様の手、やっぱり細くなり始めてた。僕はまだ、父様のお仕事がどんなものかよく知らなかったから、もっと休めばいいよって何度も言ったな。父様困ったように笑ってさ、首を横に振るんだ。できることを悔いなくしたいんだよ、って。護りは父様向きじゃなかったけれど、あれはそこまで疲れるものじゃないからね。ん? そうだよ、さっきも言ったでしょう? 球の内側を好き勝手に飛び回る力なんだから、そうさせておけばいいんだよ。楽ちんなんだよ案外。だけどね、うん。うん。そう、それは僕も少し、苦労するんだ。
 癒し……つまりは治療ってさ、大変なんだよ。同じように見えてもひとりひとり体のつくりは違うからね。切れたところを繋ぐよりも、無くなったところを作った方が楽なくらいだよ。結局は繋がないと駄目だし、頭が損なわれたらどうしようもないから、うん、僕は苦手。でも父様は凄かったね。護りと一緒にさ、それまでやっちゃうんだもの。【淵】の内側で戦ってたみんな、古傷以外は何もない綺麗な身体してるでしょう? 父様が皇帝になってからは、あの場にいた誰もが小さな傷ならすぐに治ってたと思うよ。大怪我も、止血までならしていたと思う。僕? そりゃあの頃とは治す数が違うもの。今の軍には有能な指揮官がいるらしいからね。そのおかげかもね。
 でも父様の球は少し小さかったからさ。あっちまで向かわないと力が出せなかった。父様の手はスコップが一番似合うよね。卿もそれをよくご存じで、相当な被害が予想される戦いにしか父様を連れて行こうとしなかった。それもまたさ、口さがない連中の格好の的になってさ。うん、あれだけ活躍した方なのにね。でも最終的には卿ご自身が辞去したんだよ。うん。うん。そう、誰も悪くないんだけどね。それは僕らが決めることじゃないんだろうね。
 あの父様がさ、一度だけ大声で怒ったの知ってる? え? 卿相手にだよ凄いでしょう? そっか。ううん。おまえと同い年の子だったからね。おまえには言わなかったんだろうね。父様ね、背中に庇って叫んでた。痩せっぽちで、濁った色の目の男の子。服の胸元がね、ばっさり切られてて真っ赤だった。同じくらい卿の手の剣も真っ赤だった。うん。うん。うん。そう。名前? もう居ない人の名前は分からないよ。うん。それから父様、前にも増して精力的に仕事をしてさ。そうそう。難しかったよね、薔薇の手入れ。見様見真似でどこまでできるかと思ったけど、助けてくれる人がいっぱいいて良かったね。うん、みんな、父様にありがとうって言ってたね。父様嬉しそうに笑っててさ。うん。僕ら自分たちの手柄みたいに思っちゃって。あのアーチの下がお気に入りになったね。だから、うん。その知らせもやっぱり、あの下だったね。
 覚えてる? うん。ごめんね実は僕もよく覚えていないんだ。ただあの卿が、うん。うん。そうだね、お顔は安らかだったね。また、すぐにでも土を、いじり出し、そうな……ご、めん、ちょっと。うん。ごめん。少しだけ良い? ごめん。
 ──そこから、葬儀。国葬には少なくとも三日は掛けるって貴族たちが言っていたけれど、卿は一蹴してた。あやつの居ない三日は三百日と同じだ。貴様どれだけの兵と民をあれに殉じさせる気だ、って。うん。卿はね、本葬の日には居なかったよ。葬儀の日程が決まったのを見届けて、傾き始めた日が完全に沈むころまで父様の躯に寄り添って、戦地に戻っていったよ。
 戻る前、卿が僕のところに来てね。何か言おうとしてたけど、僕が先に言ったんだ。僕はここからでも届くよ、って。卿、顔をくしゃくしゃにしてさ。うん。うん。私は今から行かねばならないが、戻ってから話したいことがある、って。僕は尋ねたよ。それは僕のことですか、それとも、って。

「卿は、何と」
「何も。僕が先に言ったから。『僕はもう決めている。だからクラウスをお願い。僕はお兄ちゃんだから』って、ね」
「馬、鹿な、それでは」
「っふ、ふふふ」
 僕は思わず笑ってしまった。「何が可笑しい」僕は身体を捩って笑う。こんなに笑ったのは何時振りだろう?
「リヒト、答えろ!」
 首元を掴まれて力が弾けた。ベッドの端に腰掛けていたクラウスが寝ている僕と同じ目線になっている。あの頃よりもずっと逞しくなったけれど、まあ、こればかりは仕方ない。でも緩んだ襟を握る手と鋭い眼光がまだ諦めていないと言っている。うん、成長したねおまえ。
「続き、聞きたいの?」
 クラウスは答えない。僕が力を使い彼の自由を奪っているので、答えられない、の方が正しいかな。クラウスが今動かせるのは内腑と目だけだ。襟を離さない利き手も、手首から先しか自由を許していない。僕は万一にも腕力でクラウスに勝てるなんて思っていないからさ。この子だったら片腕で僕を投げ飛ばすくらい造作もないだろうし。
 ぐいと襟を引っ張られる。繊細なレースがただの糸屑に変わっていく。「そういえばこの服もさ、クラウス」
「二人で考えたんだよね。どうしたら威厳が溢れ出て見えるかなって。僕あの頃の自分に言いたいな。それ三十過ぎてからどう見えるか考えた? ってさ」
 更に襟が千切られる。まあ構わないんだけど。人の肉と違って創り易いからね。たださ、クラウス。
「もう少し筋肉が付くと思ってたんだけどな。意外とこの歳でも似合っちゃうのが怖いよね」
 おまえと違って貧相な身体を晒すのは、ちょっとねえ。
 僕は胸の中央まで裂けた服を見下ろした。肘枕に頭をのせ、苦い顔のクラウスを見る。ああ、眉間も自由だったのか。物凄い皺だよおまえ。指で撫でたら余計に深くなっちゃったけれど。
「はいは一回、いいえは二回」
 クラウスがすぐに一度目を瞬く。理解が早くて何よりだ。
「聞きたいの?」一回。
「今日ここで?」一回。
「急に思い立ったの?」少し間を置き二回。
「これで最後ね」目が細まり、一回。
「本当に、何もかも、忘れているの?」一回。

 ──眉間に皺寄せ、もう一回。

 ああ、やっぱりか。僕は細く息を吐く。レオも大概だけれどさ、おまえも負けたものじゃないね。
「おまえにはね、クラウス」顔を近付け目を覗き込む。クラウスは視線を逸らさない。「さっきの仮説が正しければ、僕の力すら及ばないところがある」
「おまえの球はおまえの外側総てだ。内と外の境界は恐らく、おまえから見えるおまえ自身の肉体と世界を分ける在らざる線だ」
 クラウスは目を見開き二度三度と瞬きをする。返答のそれじゃない。困惑、緊張、あとは何だろう?
「おまえは自分の広げた掌を見て輪郭をなぞる。真正面からみたそれの甲や側面は見えない。視認できないおまえはそれを除外する。除外された総てが外側になる。おまえの球の外側は僕らのそれの内側だ。まるきり裏返しなんだよ。大抵の人間は他人の球には触れられないって言ったね? おまえの球はおまえが見るたび変化する境界を持つけれど、おまえの認識にのみ頼って作られる酷く曖昧な線だから、丸ごと包み込み面で作用する魔力相手ではどうやっても隙ができる」
 クラウスの目が揺れる。これは分かりやすいな。動揺と疑惑だ。
「反面、おまえは内側を遍く認識している。レオですら手の出せない強固な外殻に守られたその肉体と精神に関して、おまえは何か分からないことがあるかい? さっき僕を支えた腕はどの筋肉をどう動かしたの? どうして僕が起きるまでここにいたの? 言葉さえ纏められたら全部答えられるだろう? おまえは考えたことがないかもしれないけどね、自分のことを尋ねられて、常にはっきりと答えられる人って少ないんだよ?」
 曖昧な線でできている癖に決して崩れやしないし、なにものにも侵されないなんて。「ほんと理解に苦しむよ」そう零した僕の声は苛々としている。
 クラウスの口端から唾液が流れ出た。僕は彼が嚥下し易いように少々自由を増やす。クラウスの喉仏が動く。
「おまえの内側は僕から見ればあのお嬢さんの国と同じ異界だ。僕にはおまえの肉を削ぐことも思考を捻じ曲げることもできない」
 クラウスが目を閉じる。僕はそこへ掌を置く。「だからさ」僕は僕の手の甲に額を寄せる。
「力を使っておまえの心を操り癒やすなんてこと、僕にはできやしないんだよ、クラウス」
 わかってる癖に聞くなよ。どうして。
「自分で忘れようと努めたことをなぜ掘り起こすの」

 僕はクラウスに残りの自由を返した。手の下でクラウスは荒い呼吸を繰り返す。触れた瞼と額が熱い。覆い切れない額にじわりと玉のような汗が浮く。僕はこの子が汗をかくところを何時振りに見たのだろう? こんな茶番もそろそろ潮時だ。
「答えられなくなったら仕舞いだよ。さあもう」
「もう、おれは、餓鬼じゃない──っあ」
「いい加減にしろよ」
 僕は手に力を込める。クラウスの頭が寝具に沈む。「誰がガキじゃないって?」僕の力がクラウスを押す。本当に苛々する。
「質問されたから答えるなんて、回りくどい方法を使う奴がそんなこと言っていいと思うの」
「リヒ」
「おまえの番だろ。言えよ。僕が正誤で答えられるように」
 手の下で瞼が固く閉じられる感触がした。唇も同様に、裂けんばかりに引き結ばれている。多分僕のそれも、同じ形をしているんだろう。
「リヒト、お前は」
 震える唇が音を成す。小さいけれど迷いなく一言吐き出す。
「お前はおれを抱いたのか」
「違う」僕は顔を歪める。
「犯したよ」



 * * *



 激高した弟を僕は冷めた目で見ていた。
「勝手に決めるな! 何でオレが──違う、何でお前が」
「今の僕に向かってそういう口を利かない方がいいよ、クラウス。僕はもう皇帝に」
「だから! 何で勝手に決めた!」
「おまえじゃ無理だからさ。違う?」
 クラウスが言葉に詰まる。「だとしても、お前にだって」
「うん、そうだね。僕も皇帝って何をすればいいのか分からない。護りはできると思うけど、それ以外はさっぱり」
「だったら」
「うん。だからさ、二年」
「なに」
「二年間、僕は執政権をモンド=アインス・ビットマン卿に委ねて隣で勉強させてもらうことにした。おまえはその間……そうだね、ヴォルフガング卿のところに行きなさいね」
「──っふ、ざ、ふざけるな!」
 テーブルの端でティーカップを割ったクラウスが怒気も露わに立ち上がった。あるはずがないけれど、その周囲にゆらめく魔力が見えるようだ。毛足の長い白い絨毯に薄茶色の染みが広がる。僕は脚を組んだまま茶を啜る。
「ビットマン!? あれが父上と母上に何を言い続けていたのかお前が知らないはずないだろ!? あんな性根の腐った奴にこの国を任せるなんて、父上と母上が聞いたらどんな」
「母様の考えは分からないけれど、父様なら分かるよ。そうしなさいって仰ったって」
「そん、なはず、あるわけない!」
「あるんだよ。卿から聞いたんだもの。父様の遺言だ、って」
「……うそだ」
「嘘じゃない。あの人は、こういうときには嘘は吐かない。知ってるでしょうに」
「うそだ。なんで、どうしっ、ぐ」
 噎せ込んだクラウスが力なく座り込む。僕は彼の目の前に新しい茶器を創り、少し冷えた茶で満たして言う。
「飲みなよ。それ割ったらもう出さないからね?」
 クラウスは素直に応じた。飲み干したのを見て僕はもう一杯注ぎ足す。「美味しい?」クラウスは頷く。「まだいる?」クラウスは首を振る。
「オレは、嫌だ」
「何が嫌なの?」
 クラウスは答えない。
 二つ下の弟は華奢で体が弱かった。母が一番心配していただろう。自分のようにはしたくないと、自らに向けるべき分まで細かく心を砕いて配っていた。父も心配していたのだろうけれど、母よりは大らかに構えていたと思う。やりたいことは何でもやってみなさい。そう言って父は僕らの背中を押してくれた。
 クラウスは見た目こそ弱弱しかったけれど、やはりあの母の子なので大層気が強かった。気になることは進んで学ぼうとしていたし、国中の誰からも無いと断言された力も諦めていなかった。咳き込みながら教えを乞うクラウスに、僕はいつも茶を淹れながら付き合っていた。美味しいと思ってくれていたのならなによりだ。
「さ、クラウス。もう行きなよ。明日はお昼前には発たないといけないよ」
 僕は指で扉を指し示した。音もなく開いた扉の先は薄暗い。僕らの他に誰も居なくなったこの家を明日また一人が去っていく。一体何部屋あったのだっけ。まあともかく、僕が一人で暮らすのに広すぎることは確かだ。明日の予定をひとつ追加しよう。
「あし──嫌だ! オレもここに残る!」
「僕、おまえの部屋を創る気はないよ?」
「つく、る?」
「うん。こんなに広い家、僕一人じゃ使いにくいんだもの」
「嫌だ、いやだいやだ! ここには父上と母上が」
「もう居ないよクラウス」
 僕はティーカップを置き笑顔でクラウスを見据えた。「もう居ない」
 クラウスは顔を真っ赤にして唇を震わせてぼろりと涙を落とした。二人であれだけ泣いたのにね。おまえにはまだたくさん残っていたんだね。
「おまえは頭がいいからね。目に見えるかたちがなくても大丈夫だよ」
 鼻を啜るクラウスがぐずぐずとどもりながら口を開く。
「……どうして」
「うん?」
「どうして、オレが居たらいけないの。オレは」
「邪魔だもの」
 また大粒の涙が落ちる。今度は幾筋も流れていく。顔を覆い、肩を震わせて、時々咳き込んで。僕はそれをじっと見る。僕もクラウス程ではないにしろ記憶力は良い。母と同じ黒い髪の旋毛から父と同じ透き通る雫までをつぶさに眺める。そして球の内のずっとずっと奥に仕舞い込む。
「さあ立って。部屋まで行ける?」
 僕は立ち上がりクラウスの肩に手を置く。
 目の前が光った、ように思えた。右頬が熱くて痛い。鉄の味がしたので鼻の下に手を添えた。甲が赤く染まった。そうだった、この子は気が強いのだった。
 クラウスはもう一発僕に浴びせようと振りかぶり、直後床に突っ伏した。次が来ると分かっていてもう一度殴られるほど僕は打たれ強くない。僕は思い出しつつ父の真似をしてみる。考えていたよりもずっと難しかったけれどなんとか血は止まった。
「オレは、馬鹿じゃない」
「知ってるよそんなこと」
「オレはお前と違って魔力がない。体力もない」
「うん、だから邪魔だって言ってるでしょうに」
「わかってる、わかってるけど、オレにはもう、」
 置いていかないで兄さん。
 泣きながらクラウスが僕の足を抱き締める。僕は屈み込み、笑いながらクラウスの頭を撫でる。
「僕にはね、おまえ以外にいっぱいいるんだよ、クラウス」
 皇帝になると決めた日にルティは僕の背から飛び立った。今もルティは【淵】の空にいるのだろう。ルティは父の【鷹】のように振舞えているだろうか。僕はそう遠くないうちに知らなくてはならない。蟲たちと傷と、鉄の臭いと、悲鳴と怒号と、父が伏した土を。そしてクラウスが言うような、性根の腐った奴らが誰なのかを見極めなくてはならない。
 父に庇われていた男の子は、ヴォルフガング卿が居なければ確実に父を殺めていた。屠ること以外を知らないような哀れな姿だった。あれを手引きしたのはこの国の誰かだ。誰よりも知りたいであろう卿は長きに渡り戦場に囚われている。そして卿が動けないときを狙ってきっと次の哀れな子が姿を見せる。狙われたのが僕ならば、僕は少しのためらいもなく殺すだろう。そのための力も意志もある。
「いっぱいいるそいつらの前で作り笑いをするのが仕事なの? オレそんな兄さんを一人にしたくないよ」
 けれどこの優しい弟はまだどちらも持っていないのだ。僕一人では、どうやったって。
 クラウスが僕を見上げる。僕は視線を逸らす。僕の笑みはとうにひび割れている。
 どうやったら、どうしたら。たったひとつ残った大切なものを守れるんだろう。
「兄さん──ヴァ、ぅ」
「もう陛下(リヒト)だよ」
 僕らはあまりにも幼過ぎて、辛すぎて、寄る辺が無くて、似ていてそうして正反対だった。
 初めて触れた人の肌は頼りなかった。口付けたところに赤が付いた。穿ったところにも赤い一筋が垂れた。どれだけ注ぎ込んでも魔力は与えられなかった。ひたすらに僕は無力だった。
「忘れるといいよ。僕がかわりに覚えておくから」
 赤と白に塗れて動かないクラウスを抱き締め囁いた。言葉は黒い塊になってクラウスを覆った。