(get)OVER.


 【鷹】がくるりと宙返りをし、鋭い嘴から短く低い声を出した。
『私だ』
 うん、知ってるよ。おまえ以外にいないでしょう、こんな時間にここへ来るなんて。そう応えると、真白の【鷹】──ルティは薄いグラスの縁を太い爪で器用に掴み、ばさりと羽を膨らませ顎を持ち上げた。
「ルティのことじゃないよ。ごめんね」
 僕は笑い、不満そうなその頭を撫でてやる。数度小首を傾けてから、きょろと眼を動かしたルティが嘴を開く。
『入るぞ』
 その言葉は蝶番の軋みと共に一部屋隣からも聞こえてきた。勿論入ればいい。その扉は僕が望まないときには開けられない造りだ。
 静かにこちらへ向かってくるあれに僕は、この部屋の扉は普通のそれと違うからねと何回言ったのかな。物覚えが悪い訳ではないだろうに、いつまでたっても上手に開けられないんだから。
「お仕事お疲れ様。帰りしな、その口であれの頭を小突いてやって?」
『りょうかーい』
 毛づくろいをしていたルティを労いつつ、さあ行きなさいと指でふかふかの腹を押した。ルティは白い羽を一枚グラスに落とし、中空を旋回し、部屋の入口に現れた男の頭へ躊躇なく嘴を突き立てた。
「リヒトお前、今度はこれに何を言いつけたんだ」
「不調法なお客様へ扉を直す苦労を聞かせてやって、って言ったつもりなんだけどね。クラウス」
 また失敗したらしい。僕は嘴で黒い髪を梳るルティを見て同じ位に口を尖らせた。僕の【鷹】はクラウスに滅法甘い。僅かにも力の匂いがしないからだろうか。クラウスの顔を見るたび、不思議そうに香りを嗅ぎ回っては身体を擦り付け、真白の内の強大なそれを分け与えようとする。親の欲目抜きに見ても大変頭の良い子なのだけれど、この癖だけはどうしても直してくれない。
 クラウスがそっと羽を撫でつつ促す。
「もう戻れ」
『はーい。またねー』
 尾を一振りしルティは消えた。扉の横へと戻ったのだろう。
「それで何の用? 僕も今日はあんまり夜更かししたくないんだけど」
 僕は脚を組み直し片目を細め、ソファの斜向かいに腰を据えたクラウスへと問い掛けた。彼が持ち込んだ二つの包みを見て、一言二言で終わりそうにないとはわかっていた。のだけれど、常日頃用件を先に言い、僕の応諾又は拒否を確認してから話し込む彼が逸早く座ってしまうとは、はてさて。
 手にしていた包みの一つはテーブルに置かれた。もう一方を膝に置いたクラウスは、固く結ばれた持ち手を解くのに苦労しているようだ。どれだけ重いものを持ってきたの。呆れた僕はつと指を向ける。
 爪の先に現れた小さな黒い球は音もなく宙を進んだ。球が細長い包みの口とクラウスの手の上で止まり、ベールのような光沢で覆う。クラウスが顔を上げた。ああ、また眉間に皺寄せちゃって。
「おまえね、そろそろ気をつけないと」
 ここ、と、僕は僕の眉間を指差す。「皺が取れなくなるお年頃でしょう」
 クラウスは薄く笑う。「阿呆」
「お前に笑い皺ができないのに、私が何を心配する必要がある、兄上殿」
 成程ご尤も。言うようになったねおまえも。僕が笑うと包みがぱらりと開いた。
「ありがとうリヒト」
「どういたしまして」
 形から察してはいたよ。でもね、その大きさは二人分のそれじゃないでしょう。
「もう少しさ、良い歳の兄を労わりなよクラウス」
「労わってこれだが。寝酒には少なかったか?」
「大笊の弟を持つ兄の苦労を知りたい?」
「まだ知らん癖に何を言う」
「だから先に確認したんでしょうに」
「酔い潰れた兄を介抱する苦労くらいなら知ってやっても構わんが」
「あーはいはいどうもありがとう」
 ぽいぽいと軽口を叩き合いながら僕はカトラリーとグラスを創り出す。テーブルの上に皿を重ねてクラウスに尋ねる。「何がいる?」
「フォークだけで良い」
「アマネちゃんは相変わらず気が利いてるねえ。おまえも見習いなさいよね」
「見習ったからそうした」
「……はあ? 嘘でしょ?」
 少量ずつ盛り付けていたクラウスがふと手を止めた。「嘘を吐いてどうする」
「どうもしないけどさ」
 クラウスが再度手を動かす。テーブルの上に広げられた数種を全て集めた皿は、何かが気に入らなかったらしいクラウスにちょいちょいと直された魚の切り身を真ん中に僕に手渡された。
「あれと会う前から時々作っていた。知らなかったか?」
「知ってたら驚かないでしょうよ」
 多分僕の目は丸くなっていたのだろう。クラウスが笑う。「珍しい顔をする」そして皿の端に新しいフォークを添えられる。
「味の保証はせんが、食べられない程ではない筈だ」
「うん、大丈夫」
 一品一品に鼻を寄せ僕は頷く。僕の嗅覚がこれは美味しいよと告げている。クラウスがまた笑う。今度は小さく声を上げて笑っている。
「おまえこそ珍しい」
 僕は皿を一度置き、クラウスが開けようとしていたボトルを引き寄せた。手にすると同時にコルクが良い音を立てて抜け、次いで爽やかで個性的な香りが広がった。ラベルも貼られていない素朴な瓶は僕らの目よりも薄い緑色をしているようだ。
「今年のがもう出たの?」
「無理を言って先に譲って頂いた」
「職権乱用?」
「数少ない知己への無心はそれに当たらない……と、思いたいところだが」
「ま、彼にとってもおまえは特別だからさ。だからきっと……このサイズなんだろうねえ」
 僕は腕よりも太くて大きなボトルを眺めて言った。このサイズなら裏でいくらの値がつけられるのだろう。物事をその中身よりも付けられた値や【葉】の数やらで判断する狸たちの顔が浮かび、僕はくすりと笑う。
「知らないってさ、かわいそうだよね」
 クラウスが緩く口角を上げる。「そうだな」自分の分をよそい終えたらしい。皿をテーブルに置きクラウスもボトルを見る。
「狸様方の腹に収めてよいものではない。それは街の酒場でこそ振舞われるべきものだ」
 その通り。僕は同意し、眼前に浮いていたボトルを片手で掴み──すぐに両手に切り替えた。クラウスが持つ足の長いグラスが揺れている。また笑っているらしい。
「何おまえ、もう飲んできてるの?」
「まさか」
「じゃあちょっと笑うのやめてくれる?」
 フローベルガー領産の逸品をテーブルにも味わって貰いたいなら別だけど。僕がそう言うとグラスの揺れは収まった。僕は慎重に酒を注ぐ。重い。とぽりと波打つ金色の液体は、グラスの中程で止めようとしていた僕の思惑に沿ってはくれなかった。ガラス同士が擦れる独特の音がする。クラウスがグラスを持ち上げたらしい。
「笊なのは認めるが、良い酒を流し込まないだけの分別はある」
「わかってて言うのやめてよね」
 僕はぞんざいにボトルを手渡す。受け取ったクラウスは右手でボトルを構え僕を待っている。グラスの足を持ち軽く傾ける。綺麗な所作でとくとくと、僕がそこまでと思っていた位置まで注ぐ。
「佳き日に」
「佳き国に」
 目の高さまでグラスを掲げ、僕らは揃って口を付けた。


(前)


 このワインを称える言葉はいくつあっても足りない。一口飲んで皆唸り、夢心地で次を含む。溜息すら憚られるその場に自称評論家がいたとしてもそれは変わらない。他人と違うことを言おうとして頭を捻っているからだ。僕は評論家ではないし語れる程に酒を嗜んでいない。何よりクラウス相手に気取ったことを言っても仕方がない。だから思ったことだけを言う。『静寂』と銘打たれたフローベルガー領産のワインは花の香りが特徴で、それも年毎に違う花が際立って香る。今年は特別分かり易い。
「薔薇だね」
「ああ」
 クラウスが目を細めワインをぐいと飲み込んだ。僕ももう一口飲んでから球を動かした。今度は小さくも黒くもない。クラウスから僕を咎める言葉は聞こえない。僕はクラウスの空いたグラスにワインを注いだ。クラウスはまたぐいと煽った。
 大きくて白い球はゆっくりと進んだ。窓の外の景色が、途切れ途切れの雲海から街明かりの敷物へと移ろった。邪魔にならない高さはどこだろう。僕の独り言にクラウスも独り言を返す。「何処にいようと、」
 そうだろうね。僕はそれ以上球を降ろさず、クラウスが何時間か前までいたであろう建物の上で止めた。僕はグラスと皿を手に立ち上がり、出窓へ寄ってそこに腰掛けた。
 点在する光で形どられた大きな円の中央に、いつ見ても明かりの絶えない建物が聳え立っている。この高さから測っても、建物とそれを囲む光までには随分と距離がある。監視用照明が暗闇を照らした。照明の下で色濃い影を孕んだ緑が輪を描いた。そういえば最近似た揚げ菓子を食べた。僕は甘さの中にほろ苦さがあるそれを思い出し喉を鳴らした。僕の舌は酒よりも菓子の方がずっと合っているらしい。
 ボトルとグラスと皿と、小さな箱を手にしたクラウスが窓に映る。「座ったら?」この眺めは中々良いよ。僕は腰を少し端へと寄せた。隣に座ったクラウスが残りのスペースに持っていたものを並べていく。と、箱が僕のすぐ近くに置かれた。
「形は違うが」
 箱を開けなくても中身は分かった。砂糖と油の混じった香りは思い出していたのと同じものだ。全く、最近の軍はどうなっているのだろう。
「レオといいおまえといい、就職先間違ったんじゃないの?」
 箱を開け、手で摘み口に放り込む。うん、美味しい。
「油が付くと分かっていて何故フォークを使わない」
「使わないって分かってたから手拭き付きなんでしょう?」
 箱の側に投げられた布で指先を拭う。そしてすぐに次へと手を伸ばす。うん、やっぱり甘味はいい。
「仕事でないから余裕をもって楽しめる」
「まあそうだろうね。でもレオの方は余裕ないんじゃないの? 始終作ってないともたないでしょ、あの子」
「レオンハルトが苦だと思っていないのなら良いのだろう。始終、には概ね同意するが」
「今も作ってるかな?」
「今日はヤトが夜勤だ」
「じゃあ作ってるね」
 何故まさか、とクラウスが僕を見る。違う違う、そういう下世話な考えじゃないよ。僕は笑って答える。
「あいつ、誰かが頑張ってるときは何かしら差し入れしてくれるんだよ。それがヤトくんだったら言うまでもないだろ? それにあの二人が職場であれこれはしないでしょ?」
「多分な。ああ、多分」
「ないない……ないよね?」
 クラウスが黙り込む。えええ、レオに限ってそれはないって。僕はそう笑い飛ばしたけれど、どうやら心の底では幼馴染に疑念を抱いたらしい。
『ボクもレオのお菓子食べたーい』
 仕事の匂いを嗅ぎ付けた頭の良い子が僕の肩に重みを与えた。くりくりと愛らしく動かす頭を撫でつつ宙に文字を描く。「ごめんねレオ」僕は笑い、細い紐になったそれを片脚を上げたルティに括り付ける。
「緊急時以外は」
「職権濫用しまーす」
「お前に濫用も何もあるか」
 溜息を吐いたクラウスの目の前でルティが羽を広げた。窓を向いたルティはふと振り返りクラウスの手を突いた。僕には挨拶なしなのにねえ。手に顎を乗せて僕は呟きクラウスは薄く笑う。
「目立たないよう疾く行け」
 クラウスが指でルティの顎を撫でる。
『りょうかーい。お使い終わったらクルークと遊んでくるねー』
 再び窓に頭を向けたルティはとんと飛び、ガラスに身体半分を埋め窓枠を蹴った。窓辺に残された半綿羽はクラウスが摘むと消えた。消えた先を追うような目でクラウスは何を考えているのだろう。僕はまたワインを飲む。
 窓の外を眺めたままでクラウスが言う。
「何を書いた」
「本当にそれが、聞きたいの?」
 僕は笑って返す。クラウスが僕をちらと見る。「それも、聞く」うん、素直でよろしい。
「レオとさ、明日晴れたら遠乗りに行こうよって約束してたんだ」
「成程。勤務時間が変更になったのはヤトだ」
「だろうね。知ってたら僕もご遠慮してたよ」
「次の希望があるなら」
「あー、いいよいいよ。そんな大層なことじゃないから。さて、もう一つはなに?」
 クラウスのグラスは空いていた。大分と軽くなっていたボトルはなんとか片手で扱えた。危なっかしく注ぎ足して、気の緩んだところでつるりと滑った。落ちかけたボトルはクラウスに拾われ事無きを得た。「阿呆」はいはいごめんなさい。
「何故魔力を使わない」
 クラウスが僕のグラスに注ぎ返す。酸味の利いた白身魚を頬張っていた僕は答えに詰まる。喉は詰まらせたくない。慌てず飲み込み、ワインで口を潤す。
「おまえの逞しい腕を見てたらさ、僕もお兄さんとして鍛えないと駄目かなと思いまして」
「良い心掛けだな。それで?」
 僕はもう一口ワインを飲む。「数年遅かったかなと反省してるところだよ」
「二十年」クラウスがグラスへ手酌で注ぎ足す。ごめんなさいねペースが掴めなくて。で?
「そんなに?」
「ああ」
 それはちょっと酷いんじゃないの。頬を膨らませた僕はクラウスを斜に見る。クラウスは真っ向から言う。
「それで? リヒト」
 僕は答えず口角を上げる。口元に笑みを貼り付けたままクラウスの目をじっと見る。そして諦める。駄目だな。この子がこういう顔をするときは一切引かないときだ。僕はワインを飲む。
「おまえがああいう顔をするからだよ。クラウス」
「それは」
「はい交代」グラスをくるりと回す。「一問一答。もう一つは何?」
 クラウスは押し黙る。僕はグラスに口を付ける。あれ空だ。僕も手酌で注ぎ足す。薔薇の香りがまた膨らむ。
「どちらかが答えられなくなったら解散。どうする?」
 さて賢明な弟君は挑発にどう出るかな。僕は意地悪く笑って待つ。クラウスが視線をグラスに落とす。これは案外と早く、
「──魔力とは、何だ」
 早く、お返事が頂けたね。本当に。



「真球の内を奔(はし)る形無き力。外つ国と中つ国の狭間で回る竜の血の欠片。地を這うものどもの餌。大いなる盾。人殺しの戎具(じゅうぐ)。おまえは何を聞きに来たの?」
「私が忘れていることを。魔力を持つ者持たない者の違いはどこにある」
「目下研究中だけど、僕らが生きている内には判明しないと思う。恐らくずっと分からないだろうね。僕とおまえのように、全く同じ父と母から生まれてもこれだけの差があるんだ。遺伝や環境因子だけではない何かがあると思うけれど、知ったところで扱えるものではないよ。僕に理解できないのだから誰にもできやしないさ。物覚えの良いおまえが何を忘れているというの?」
「幼い頃のことだ。レオンハルトはお前やヤトの力を取り込み扱うことができるだろう? 何故私にはできない?」
「レオは力こそ少ないけれど僕と同じくらい大きな球を持っている。肉の内で幾重にも折り畳まれたその球で、レオは他人の球に触れることができる。自身の球の容(かたち)を変えること、そして他人の球に障り無く触れること、あまつさえ快く差し出された中身を受け取ってしまうなんてことは……僕にもできない。あれも酷く特異な才だね。クラウス、おまえにはその球が無い」僕は一旦区切りワインを飲む。「と、思っていたけれど。最近面白い仮説を思い付いたよ。具体的な時期はいつ?」
「十二のときだ。球が……いや、仮説とは何だ」
「おまえの球は、内と外が逆だ、と。十二? 僕が? おまえが?」
「私が。どういう意味だ」
「可愛い娘さんがね、おまえの【鷹】はおまえが生まれる前から働き通しだったのかなって。足も羽も枯れ落ちる程に疲れたけれど、おまえが心配過ぎて頭だけでも戻って来たのかな、だってさ。成程と思ったよ。おまえが十二ね。あそこを出る前? 出た後?」
「出る前だ。内と外とは」
「僕の球は国土を難なく包めるくらいの大きさだ。その内側なら大抵のことはできる。対しておまえはどうか。外つ国でも娘さんの国でも変わらない。剣も拳も変わりなく揮える。不思議だと思わない? 外つ国はともかく、理が全く違う世界でもおまえはここと同じように振舞うことができるんだよ? 僕があちらへお邪魔したとして、今と同様の力を揮えるとは考え難い。シュネーにこっそり言付けたけれど、一日経っても反応がないから多分間違いじゃない。これはどういうことだろうね。そこまでわかっているのに僕から何を聞きたいの?」
「何、が」
 クラウスがグラスのワインを飲み干す。若草よりも淡い色のボトルは一層透けて見えた。これならば僕でも易々と扱える。手酌を制しグラスに注ぐ。「終わり?」そして僕も注ぎ煽る。
「何があった」
「どうして知りたいの」
「一問一答」
「いつ、誰が、どこで、どうして、どうなった。それのどれが分からないのか言ってくれないと答えようがない」
「私が十二、お前が十四、父の死を聞いたとき、私とお前はあの場所に居た」
 クラウスが窓の遥か下、可愛らしいお嬢さんが『ドーナツ』と呼んだ菓子に似たそこを指し示す。
「父上の葬斂(そうれん)が終わった後、気付けば私はヴォルフガング卿の屋敷に居た。その間のどうして、どうなった、が知りたい。何故言いたがらない」
「おまえにとって良いことじゃないからだよ。どうして知りたいの?」
「良いか悪いかは私が決める。知らないことは可哀想なのだろう? 違うのかリヒト」
「それは、そうだね。でも」
 くらくらとする。過ぎた酒と話のせいだ。この僕がクラウスよりも口が回らなくなるなんてね。ああやだやだ歳かなあ。レオも気をつけた方が良いよ。二つ差ってさ、思ったよりも近くて遠いのかもしれないよ。「ちょっとお手洗い、に──」
「リヒト、」
 グラスが落ちて割れる。その上に僕は倒れ込む。クラウスの左腕が伸びる。僕は魔力を奔らせる。身体を支えないと。ううん、それよりもまず、刺々しいものからクラウスの腕を守らないと。「僕は……お兄ちゃんだからね」